広川峯啓の“笑いま専科”

広川峯啓の“笑いま専科”

10月 14日

日本コント史 その2「仁丹・天丼ほか」(後編)

タイトルにある「仁丹」「天丼」は、終戦後に多くの有名無名の芸人によって演じられてきたコントのタイトル。これに「レストラン殺人事件」を加えて「3大コント」と呼ばれたりしました。

仁丹も天丼も、そっけないタイトルからは内容の見当もつかないのでは(最近良く聞く、ギャグ用語としての「てんどん」とは無関係)。要するに、芸人同士の符丁のようなもので、当時の観客にもこの呼び名、全然知れていませんでした。

肝心の内容ですが、はっきり言ってストーリー自体は、どうってことありません。面白いコントが量産されている今の目で見ると、かなりがっかりするんじゃないでしょうか?

にもかかわらず、ここで取り上げたのは、コントの歴史の中で欠かせないくらい重要な役割を果たしてきたからなんです。カッコ良く言えば、当時一匹狼だった芸人同士を結ぶ絆のようなものでしょうか。

戦前はエノケンやロッパのような座長のもとに集まった劇団員がコントを演じてましたが、前編に記したように、戦後のコントはストリップの幕間が主戦場。集められた芸人も、古くからの仲間ばかりとはいかず、組んだ事のない相手といきなりコントを始めることも日常茶飯事でした。

そんな時でも「今日は『仁丹』やろう」となれば、リハーサルもいらず、スタッフもすぐに小道具を用意でき、すぐに本番となる。舞台にかかわっている人間は誰もがコントの内容を知っているからこそできる驚異的な早業です。

ただし、いざ始まってしまえば、そこは演者同士の真剣勝負。冒頭の設定だけは踏まえるものの、その後はストーリーも結末もあってないようなもの。どれだけ自分の芸で、場内の客を笑わせるかという、芸人のプライドを賭けた戦いが繰り広げられてきました。

もちろん、当時の芸人のレベルにもピンからキリまであったものの、芸が詰まらなく評判の悪い芸人がフェイドアウトしていくのは、いつの時代も同じこと。舞台の上で生き残るには、死に物狂いで笑いを取らなければならなかったのです。

やがて、こうした舞台コントの全盛時代に転機が訪れます。全国の家庭にテレビジョンが普及し始めたことが、直接のきっかけでした。

10月 11日

日本コント史 その2「仁丹・天丼ほか」(前編)

昭和初期にレビューの人気とあいまって、観客の興味を集め始めた日本のコント。しかし、戦乱の影が色濃くなっていくとともに、軍部や警察からの圧力が強まり、思い通りの舞台が演じられなくなりました。

三谷幸喜の傑作戯曲で、後に映画化もされた「笑の大学」という作品があります。登場人物等はほとんど架空の名前ですが、作中で描かれた喜劇台本の検閲は、ほぼ史実どおりです。再びコントが勢いを取り戻すには、戦争の終結を待たなくてはなりませんでした。

戦後になって、コントは意外な形で復活を遂げます。それは、突然巻き起こったストリップの爆発的人気に乗っかったものでした。悪く言えば、ダンサーが登場するまでの繋ぎ役として、コントが非常に重宝されたのでした。

演じる芸人さえいれば、セットも小道具も大げさなものは必要なく、しかも上演時間だって周囲の事情で伸ばしたり縮めたり自由自在。劇場主や支配人にとっては、まさに都合の良い存在だったのです。

ただ、演じる側にとっては、満員の観客を前にして(例えそれがストリップ目当てであっても)、毎日が真剣勝負でした。誰と戦っていたのか? それは、大して興味なさそうに見ている観客だったり、ストリップで儲けているのに、安いギャラでこき使う経営者だったり。さらに、コントの中で共演している同僚の芸人さえも、ライバルというか絶対に負けられない敵でした。

漫才と同じようにほとんどのコントにも「ボケ役」と「ツッコミ役」が
存在しますが、そんな役割分担など関係なく、隙さえあれば相手よりも目立とうとし、自らの持ちネタを駆使して爆笑を取ろうと、誰もが死に物狂いで舞台を勤めていました。


そんな鬼気迫る笑いの舞台だからこそ、ストリップを見に来た客の目もコントに引きつけられ、次第にコント目当ての客が集まるようにまでなっていったのです。

「仁丹」「天丼」(あと「レストラン殺人事件」を加えて3大コントと呼ばれました)などは、経験を積んだ当時の芸人なら誰でも演じられるポピュラーな作品。しかし、前回紹介した「最後の伝令」のように、練りに練り上げられたクオリティの高い作品とは、多少主旨の違ったものでした。(後編に続く)

10月 7日

日本コント史 その1「最後の伝令」(後編)

間に「キングオブコント」の話題を挟み込んだせいで、すっかり間隔が空いてしまいました。すみません。前にどんなことを話したのか忘れてしまったり、そもそも、それ読んでないけどって方々のために、簡単なおさらいから。

日本でコントというものが演じられるようになったのは、昭和に入ってからと言われています。その黎明期に作られながら、今もって名作として語り継がれている作品が、菊谷栄が執筆し、エノケンこと榎本健一が主演した「最後の伝令」なのです。

エノケンという名前は聞いたことがあっても、菊谷栄という作家を知る人は少ないかもしれません。というのも、若くして日中戦争に出征し帰らぬ人となった「幻の天才」なのです。

生前よりも、むしろ死後に様々な伝説が掘り起こされ、最近になって評伝も発表されました。それによれば、コント以外の創作でも才能を発揮したとのこと。もしも戦地で命を落とすことがなければ、その後の芸能界を大きく変えたのでは。

「最後の伝令」からは、そういった才能のきらめきが強く感じられます。まず、このタイトルですが、初演の際の正式名は「大悲劇・最後の伝令」。抱腹絶倒のコメディに、あえて真逆の演題を付ける発想は、とても戦前のものとは思えません。

19世紀の南北戦争を舞台にしたこの作品。といっても、繰り出されるギャグの数々は、演じる役者が棒読みだったり、裏方のスタッフと役者がケンカしたりと、コントの元祖でありながら、早くもその枠をぶち破った破天荒なものでした。

こうした手法は、今でこそ様々なコント、喜劇の中に取り込まれてますが、元祖の持つパワーはとてつもなかったと推測できます。例えギャグ一つであっても、ゼロから生み出したものは輝きが違いますから。

この不世出のコントは、後に同じエノケン主演の舞台「雲の上団五郎一座」の中で、劇中劇として演じられてきました。しかし、劇中劇にしてしまったことで、コントの持つ破天荒さを自ら狭める結果になったようにも思えます。

いま、あえて再演するなら、コメディ専門でない劇団によって、書き割りじゃない真っ当なセットの中で演じられることで、初演以来のインパクトを発揮できるんじゃないでしょうか。あっ、タイトルでネタバレするから「ラスト・メッセージ」とか、アレンジした方がいいかも。ってことで、どこかでやってくれませんかねぇ。文学座さん、劇団四季さん、どーですか(笑)。

プロフィール

hirokawa takaaki

「週刊テレビガイド」「TV Bros.」等の編集者として、客観的な目で見ることのできる立場からテレビと接する。 平成10年 フリーのライターとして独立。依然としてテレビ関係の記事、コラムを中心に活動。数年がかりの仕事として、日本テレビ50年史(非売品)の記事、コラムを共同執筆する。ミーハーさとマニアックさを合わせ持った目線で、ありとあらゆるバラエティを紹介していきます。

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