広川峯啓の“笑いま専科”

広川峯啓の“笑いま専科”

3月 7日

ザキヤマ“ビアリー”へ行く!!

毎回、日本のエンターテインメント界わいのお話を書かせてもらってるこのコラム。しかし、世界に目を向けてみると、中東・北アフリカ諸国で反体制デモが続発するなど、非常に緊迫した情勢が連日報道されています。

中でも、もっとも混迷を深めているのが、リビアでの大規模な反政府デモと、徹底して弾圧を加えている政府軍との騒乱でしょう。しかし、海外からの報道陣がシャットアウトされていることもあり、現地の映像は残念ながら、頻繁にニュースで目にすることはありません。

そんなリビアに、騒動発生のわずか半年前に単身で乗り込んだ、勇猛果敢な日本人タレントがいました。その名は、アンタッチャブル山崎弘也、いわゆるひとつのザキヤマさんです。

彼の2日間にわたる“リビアぶらり旅”を収めたDVDが「アンタッチャブル山崎弘也の休日inリビア【無修正完全版】」。前編、後編の2本で計3時間弱という、 非常に見応えのある作品となってます。

リリースされたのは昨年11月。はっきり言って、それほど大きな話題にはなりませんでしたが、今となっては、どんな敏腕な戦場カメラマンでも撮影不可能と思われるリビア各地でのロケだけに、超貴重映像といっても過言ではないでしょう。

収録は昨年7月に行われたとのことですが、もともとのコンセプトは、何とかしてカダフィ大佐に会いたいというものでした。「“ビアリー”へ行くぞ~」と、遥か手前の目黒駅からザキヤマさん、いつものテキトー感たっぷりに怪気炎を挙げてました。

ところが、いざ現地に降り立つと、そういった目論見は到底無理だったことが、映像に映る町並みの様子からでも何となく漂ってきます。例えば、さまざまな一般市民にカダフィ大佐の印象を聞こうとしますが、聞かれた相手か無言だったり、しまいには通訳の人に「その質問はしない方がいい」とたしなめられたり。

クライマックスとして描かれるのは、山崎のリビアのテレビ局への生放送飛び入り出演。地元アナウンサーから「面白いことやって」とムチャブリされるザキヤマさんに大爆笑されられる反面、「これが、反政府軍が一時占拠したテレビ局か」という思いも一瞬よぎってしまいます。

どんな報道番組よりも、ある意味、リビア国民の生の表情を捕らえたエンタテインメント作品。まさに今が旬のDVDでは。
3月 2日

80年代、お笑いは「文化」になりかけた(後編)

「スネークマンショー」のブレイクと、「マンザイブーム」の最盛期は、ほぼ同時期といえます。新しい笑いを一般的に広めたという点では共通する両者ですが、そこには決定的な違いがありました。

スネークマンショーが生み出す笑いは、従来のお笑い好きな層に加えて、日ごろから流行に敏感でセンスを磨いていた若者のアンテナに引っかりました。単に面白いだけでなく、アート性、ファッション性、カッコ良さを感じたんですね。少なくても日本のお笑い業界においては、前人未到の出来事でした。

こうした影響は周辺にも広がりました。まずアルバムでコラボレーションしたYMOが、バラエティに出演するだけでなく、コントや漫才にまで挑戦しました。さらにその影響で、アーティストはみだりにテレビに出るものじゃないという、当時の常識をあっさり打ち破ったことで、人気ミュージシャンが「俺たちひょうきん族」などのお笑い番組に出演するという現象が生まれました。

YMOの坂本龍一も参加している映画「戦場のメリークリスマス」に、重要な役柄でビートたけしが出演したことも、結果的にはお笑いの地位を高めることとなったのでは。この勢いが続けば、お笑いの文化的地位は欧米並みに高くなっていたかもしれません。

そうならなかった理由はいくつか考えられますが、期せずしてスネークマンショーの後ろ盾的存在となっていたYMOが、83年に“散開”してしまったたことも一因だったように思います。この機に乗じて、音楽業界は保守回帰を図り、“高尚なお笑い”は次第にメインストリームから脇へと追いやられていきました。

ただ、現在の状況を見ると、それは必ずしもマイナスではなかったように思います。漫才にしろ、コントにしろ、バラエティ番組にしろ、雑多なものが共存共栄しているからこそ、多くの人が自分の気に入ったものを選択できるのですから。

それに、本当にいいものは、例え忘れ去られたとしても、形を変えてまた我々の前に現れるはずです。例えば、いま人気絶頂のスリムクラブって、どこかスネークマンショーに似てると思いませんか?
2月 28日

80年代、お笑いは「文化」になりかけた(中編)

1980年代にもっとも影響力を持ったコントユニット。シティボーイズでもコント赤信号でもありません(もちん、どちらも大好きなグループですが)。それは間違いなくスネークマンショーです。

もともとは、75年にラジオ番組「スネークマンショー」としてスタート。DJを担当した小林克也と音楽プロデューサー桑原茂一によって形作られ、76年に俳優の伊武雅刀が加入。音楽番組内のブリッジ的役割として、さまざまなスケッチ(コント)をオンエアしてきました。

ブレイクのきっかけは、80年にリリースされたイエロー・マジック・オーケストラ4作目のアルバム「増殖」に、ユニットで参加したことでした。YMOの楽曲の間で演じた「ここは警察じゃないよ」「若い山彦」といったコントがセンセーショナルを巻き起こし、「スネークマンとは何物なんだ?」と、感性の鋭い音楽ファンを引き付けました。

翌81年には、ユニットとしてのアルバム「スネークマンショー(急いで口で吸え!)」をリリース。人気を不動のものにします。とはいえ、当時テレビ出演等は極力控えられました。キャラクターの声とSE(効果音)、そしてコントとコントを繋ぐ最先端の音楽(この時点で既に主客転倒)に耳をこらしながら、リスナーは想像力を膨らませていたのです。

スネークマンショーの魅力については、WEBにしても紙資料にしても、詳しく記された文献が膨大に存在しているので、ぜひそちらを参照してみてください。ただ一言で表わすとすれば「過激にして愛嬌あり」といったトコでしょう(ちなみにこの言葉、明治時代に創刊された歴史的雑誌「滑稽新聞」のキャッチコピーなんですが)。

スネークマンショーが話題になっていたほぼ同時期、こちらも日本中を巻き込んだ「マンザイブーム」がありました。この2つは「新しい笑い」を生み出したという点では共通していましたが、同時に大きな違いも見られました。

その違いとは……。というところで今回はここまで(笑)。次回こそ必ず完結させますので、乞うご期待。
プロフィール

hirokawa takaaki

「週刊テレビガイド」「TV Bros.」等の編集者として、客観的な目で見ることのできる立場からテレビと接する。 平成10年 フリーのライターとして独立。依然としてテレビ関係の記事、コラムを中心に活動。数年がかりの仕事として、日本テレビ50年史(非売品)の記事、コラムを共同執筆する。ミーハーさとマニアックさを合わせ持った目線で、ありとあらゆるバラエティを紹介していきます。

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