広川峯啓の“笑いま専科”

広川峯啓の“笑いま専科”

1月 18日

日本コント史 その10「漫才ブーム前夜」(後編)

長く続いた「テレビの黄金時代」と、80年代の「漫才ブーム」の間に挟まれた70年代後半は、まさにバラエティにとってエアポケットでした。制作サイドは、新しい笑いを生み出すことよりも、お茶の間が楽しく見られる雰囲気を作ることに徹していました。

しかしそんな状況のもとでも、水面下では新たな笑いを模索する動きが見られました。時系列的に言えば、70年代中盤に演劇の世界で革命を起こしたと言われる、つかこうへいの芝居が後のお笑い、特にコントの世界に与えた影響は、並々ならないものがありました。

つかこうへいの芝居にとって、「笑い」というものは全体をつかさどる要素の一部分でした。しかし、若き笑いの作り手達にとって、つか芝居からほとばし出てくる「笑い」は、あまりにも刺激的でした。

この影響を受けた若者たちが、その笑いの手法を会得して表現し、それが広く受け入れられるようになるまでには、ある程度の年月を要しました。小劇場出身のコント赤信号、シティボーイズ等が人気を獲得したのは80年代に入ってからのことです。

それとはまったく違う角度から、日本の笑いに革命(というか、黒船襲来ですな)を巻き起こした存在がありました。ご存知「モンティパイソン」です。76年の4月に東京12チャンネル(現・テレビ東京)で放送が開始され、それまでの日本にはなかった斬新な笑いに、たちまち魅了された熱狂的なファンは、決して少なくはありませんでした。

とはいえ、関東ローカル圏内での放送ということもあって、日本全土を揺るがすまでにはいたらず、まだまだ「ゆるい笑い」は幅を利かせていました。ただ、思わぬ反響に手応えを感じた12チャンネルは、その後も「サタデー・ナイト・ライブ」「ザ・ゴング・ショー」「SOAP」など、欧米最先端の笑いを次々と紹介。新しい笑いを受け入れる土台を築いたのではないでしょうか。

このように、お笑い停滞期とも見えるエアポケットの数年間でしたが、数年後に待ち受ける変革期への予兆は、いくつも存在していたのでした。……と、ここで「第一部完」とすれば、納まりが良さそうにも見えますが、実は大事なことを一つ書き落としてしまいました。

というか、今回の文脈の中で伝えるには、あまりにも大きすぎる事項ということもあり、熟慮のうえ(?)、新たに別項目を立ち上げて、ご紹介させていただくことにします。(という訳で、やっぱりもう少しだけ続くことに(汗))
1月 17日

日本コント史 その10「漫才ブーム前夜」(中編)

70年代後半、漫才ブームが到来する少し前の時代。お笑い、バラエティの世界は、今の眼で見ると不思議な停滞感に包まれていました。しかし、同時代に生きていた観客にとっては気がつきにくいことだったのかもしれません。

流行りの言葉でいうと「ゆるい笑い」ですね。これがゴールデンタイムの人気番組中に満ちあふれていたんです。まだまだ、お茶の間で家族だんらんが存在していたこの時期、ちびっ子からおじいちゃん、おばあちゃんまで一緒に見られる番組が、バラエティとして高評価を得ていました。

一方、視聴率は高くてもワースト、俗悪番組と称されるものもありましたが「食べ物を粗末にしている」とか「暴力やエッチなシーンが多い」といった、ある意味、非常に判りやすいもの。つまり、誰もが番組の内容を十分理解して、その上でクレームを付けていたんです。

制作する側の姿勢も、現在のバラエティの作り方と180度違っていました。誰が見ても判りやすく楽しめることが、第一の条件であり、マニアックでとんがった笑いは、却って避けられる傾向があったようです。

まるで、60年代にひたすら笑いのクオリティを追及してきたバラエティの世界に、息切れが生じたかのようです。でもぶっちゃけてしまえば、人気者さえ出しておけば、それほど苦労しなくても視聴率が取れるという時期だったんだと思います。

クオリティの高い笑いを生み出すには、常に創造の苦しみがつきまとうもの。しかし、クオリティよりも楽しさを伝える番組作りであれば、これまで蓄積してきた技術とノウハウで、容易に再生産することが可能になってきます。

小林信彦が名著「テレビの黄金時代」の中で描いたのは、70年前半までのバラエティ作りの現場でした。それ以降、放送作家の仕事を離れたこともあって、他の著作でも多くは語られていませんが、この時期に黄金時代が終焉したことは、誰もが認めるところでしょう。

このように表面的には停滞していた70年代後半のバラエティでしたが、その水面下では新しい笑いを生み出すエネルギーが沸々と燃えたぎっていたのも、また事実でした。(次回でフィナーレを迎えるか!?)
1月 16日

日本コント史 その10「漫才ブーム前夜」(前編)

1980年代に入ると、60年代の演芸ブームを上回る勢いの漫才ブームが日本を席巻しました。しかしその間のブランク、特にブーム直前の70年代後半は、お笑いの停滞期ともいえる状況でした。

決して人気番組がなかったわけではありません。『全員集合』は高視聴率をキープしていたし、裏番組としてぶつけてきた『欽ちゃんのドンとやってみよう』も話題を集めました(これについては後述します)。また、同時期にスタートした他のバラエティものきなみ人気を集めていました。

『金曜10時!うわさのチャンネル!!』『カックラキン大放送』は、前回も紹介しましたが、『シャボン玉ホリデー』に代わってワタナベプロが力を入れてスタートさせた『笑って!笑って!!60分』『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』も、安定した人気を獲得。

両番組のレギュラーだったザ・ハンダースがリリースした『ハンダースの想い出の渚』が30万枚の大ヒットを記録したのは77年のことでした。また『みごろ!~』から生まれた『電線音頭』も大ブームを巻き起こしました。

筆者が好きだったのは、両番組で爆笑コントを繰り広げていた伊東四朗、小松政夫のコンビ。しかし、上記のブームにあまりにも脚光が当ったため、当時はそれほど注目を集めませんでした。

そのほかに人気を集めていたのが『うわさのチャンネル』でブレイクした、せんだみつお。コンビを組むことの多かった湯原昌幸や、女性アイドル達とともに、様々な番組でコントを繰り広げていました。

これらが高い人気を集めていたことは確かですが、それまでのコント、そして漫才ブーム以降のコントと比べると、明らかに違和感を感じるものがありました。いったいそれは何なのか? というところで、最終回も引っ張ります(笑)。
プロフィール

hirokawa takaaki

「週刊テレビガイド」「TV Bros.」等の編集者として、客観的な目で見ることのできる立場からテレビと接する。 平成10年 フリーのライターとして独立。依然としてテレビ関係の記事、コラムを中心に活動。数年がかりの仕事として、日本テレビ50年史(非売品)の記事、コラムを共同執筆する。ミーハーさとマニアックさを合わせ持った目線で、ありとあらゆるバラエティを紹介していきます。

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