1950年代にスタートしたテレビ放送は、日本のエンタテインメント業界に著しい改革をもたらせます。中でも、比較的早々と恩恵を受けたのが、ストリップなどの幕間でコントを演じていた芸人達でした。

開局早々で番組の絶対数が足らないテレビ局は、すぐに電波に乗せられるネタを持った浅草などの芸人に注目。中でも、最初にブレイクを果たしたのが、由利徹、八波むと志、南利明からなるユニット、脱線トリオです。

「お昼の演芸」という番組の中で、彼らが毎回演じたコント「たそがれシリーズ」はたちまち大人気。それまでマイナーな存在だった舞台芸人が、テレビタレントとして日本中に知られる存在に。

「脱線トリオ」とはうまく名づけたもので、彼らは浅草、新宿で繰り返し演じてきた、筋の有って無いようなコントを、台本やリハーサルから大幅に脱線しながら、観客を爆笑の淵に追い込むのでした。ストリップ目当ての観客を力づくで沸かせてきた実績が実を結んだ瞬間でした。

この出世劇を見て、心穏やかでなかったのが、同じように各地の舞台でコントや喜劇を演じてきた面々。「あいつらにできて、オレたちに出来ない筈がない!」とばかりに、多くの芸人がテレビへの進出に野心を燃やします。

その中の1人だったのが、後に国民的人気を獲得する渥美清。芝居仲間の谷幹一、関敬六とともにスリーポケッツというユニットを結成。一時期テレビの世界で人気を博したものの、そこから渥美ひとりがスルリと抜け出し、トリオは短期間で事実上解散となりました。

ちなみに、これで3人の友情が壊れたわけではなく、「男はつらいよ」シリーズには谷、関が頻繁に出演し、浅草の軽演劇を継承した関敬六劇団に渥美がゲストで出たこともあったといいます。

そのほかの芸人も、テレビという新天地での飛躍を夢見て、あくなき挑戦を重ねていました。しかしその大半は、テレビという狭いスペースに納まることができず、舞台へ逆戻りしたり、芸人そのものをやめたりと、さんざんな挫折を味わいます。

その代表格が、浅草で劇団を率いたこともあった萩本欽一。生放送の制約に縛られ、CMコメントをまともに言えず、すぐに降ろされたとか。後にテレビ界を代表する人物になったことを思うと、意外なエピソードですが。

一方、笑いに理解がある関西では、テレビ開局当時から舞台出身の芸人、役者が積極的に起用されてきました。やがて、関西発のコメディが日本中で人気を集めはじめ、大村崑、芦屋雁之助など、関西からも次々にブレイクするタレントが登場しました。

この時期なぜか、東京では脱線トリオ以外のコントは受け入れられませんでした。ただ、数年のブランクを経て昭和40年代に入ると、突然のように脱線の系譜を継いだトリオコントのブームが巻き起こります。