昭和30年初期に、新宿のジャズ喫茶等で音楽コントを演じ、喝采を集めていたクレージーキャッツ。彼らがやっていた音楽コントの源流をたどっていくと、漫才と共通の祖先である古典芸能「万歳」の存在がありました。

中世から近代にかけて、大衆を楽しませてきた万歳が、お囃子を漫才へと姿を変えたのが昭和初期。ちょうど同時期に登場したのが、西洋楽器を携え「ジャズ漫才」と称したあきれたぼういずの4人でした。

彼らの凄かったのは、レビューや万歳の掛け合いを取り入れ作り上げた芸が、日本はもちろん、海外にも類を見ないオリジナルなスタイルになったということ。

このスタイルは、グループ名をとって「ボーイズもの」と呼ばれ、現代まで連綿と受け継がれています。こちらについても、語りだすと際限なく続いていきそうなので、これはこれで、そのうちタイミングを見計らってじっくりと…。

あきれたぼういずの登場したほぼ同時期、海を隔てたアメリカに目を向けると、偶然の一致というべきか、笑いと音楽を融合させたユニットが出現していました。スパイク・ジョーンズ(以下、SJと略)と彼の率いる楽団、シティ・スリッカーズです。

もちろん、この日米の2グループに接点はありませんでした(おそらく)。何しろ、太平洋戦争勃発直前の緊張した時期であり、SJは敵国ドイツの総統・ヒットラーをからかう歌を作っていました。互いの情報が行き交うことなど考えられなかった時代だけに、何か不思議な繋がりを感じてしまいますが。

戦後になって、SJに魅せられた日本人が現れます。当時、新進気鋭のドラマーとして名を馳せていたフランキー堺です。アメリカから空前のジャズブームが押し寄せていた中、彼は正統派のジャズに飽き足らず、演奏の中にクシャミやうがい、風船の割れる音などを盛り込んだ(もちろんライブで!)SJの冗談音楽に耳を奪われました。

フランキーは自身の楽団にSJをリスペクトして、シティ・スリッカーズと名づけ、クラシックからジャズまでを縦横無尽にパロディ化するスタイルを、日本に移植します。前編でも記しましたが、このバンドに在籍していたのが、植木等と谷啓。特に谷啓は、フランキー以上にSJへの傾倒ぶりを発揮し、独自の音楽ギャグも考案していました。

というわけで、前編からかなりの迂回をしてきましたが、改めてフランキー堺とシティ・スリッカーズこそが日本の音楽コントの先駆けであると、ここに断言したいと思います。異論は…大歓迎です!

今回はほとんどクレージーに触れられませんでしたが(汗)、次回後編では、音楽コントから始まった彼らが、音楽抜きのコントでも日本を席巻するまでに至った経緯をたっぷり紹介していきます(後編に続く)。