コントの歴史をひもといて、バラバラにしてしまっている(笑)この長編コラム。前回は、テレビという存在によって新たな展開を迎えたコントの世界を紹介しましたが、ここから時代は昭和40年代へと差し掛かります。

東京オリンピックの開催を経て、テレビもカラー放送が開始されました。バラエティ番組も華やかな歌や踊りが脚光を浴びたようですが、その一方で演芸番組も「カラー寄席」など、カラー化が進みました。

その影響なのか、落語や漫才が中心だったところに、動きが派手で衣装も凝らしたコントが注目を集めるようになりました。

そのコントグループは、なぜか3人編成のものが主流でした。これはテレビが育てた初のコントグループが脱線トリオだったことから、制作サイドに「コントは3人で演じるもの」という固定観念があったようです。

また、最初に人気を獲得したのが、内藤陳の率いるトリオ・ザ・パンチだったことも、コント=トリオという考えを加速させました。

続いてブレイクしたのが、ナンセンストリオ、ギャグメッセンジャーズ、てんぷくトリオなど。あと、漫才のなかで3人の個性を発揮させたトリオスカイラインも、同じ括りで見られることが多かったようです。

彼らに共通するのが、やはり浅草等の劇場出身の芸人だということ。また、浅草には落語以外のいわゆる色物専門の寄席、松竹演芸場があり、ここで人気を集めた後にテレビへ進出したユニットが大半でした。

いわば、コントグループにとっての登竜門でしたが、テレビにも同じく登竜門と呼ぶべき番組がありました。(中編に続きます)