前回のラストで、トリオコントに代わる超大型コンビの出現(40代以上の方なら、勿論御存知でしょうが)をにおわせたところで、またまた小休憩です。ここまで、コントの歴史を駆け足(これでも!)で振り返ってきましたが、東京中心に偏っていたことは認めないわけにはいきません。

テレビ放送にしても、1953年に日本テレビが開局したのに続き、56年には関西初のテレビ局、大阪テレビ(後に朝日放送と合併)が開局。そこでは、中田ダイマル・ラケット、大村崑など関西の芸人が出演するコメディが人気を集めており、全国ネットされる番組も少なくありませんでした。

ただ、コントというジャンルについては、今ひとつ大阪では盛り上がりに欠けた感があります。何しろ「2人よれば漫才になる」と称されるほど漫才が根付き、芝居についてはそれ以上の長い歴史を誇るのが上方の文化。小人数で舞台に立つのに、わざわざ小道具を必要とするコントは不向きだったのかもしれません。

その一方で、作家が練りに練った台本で演者一同が稽古に稽古を重ねて披露する喜劇(コメディ)は、古くから安定した人気を集めてきました。テレビ創成期から関西発のコメディ番組が、数多く全国ネットされたのも、もともと高いクオリティを持っていたからでしょう。

そんな関西にあって、コントグループとして孤軍奮闘したのが、1963年に結成されたチャンバラトリオでしょう。トリオと言っても3人組だったのは結成当初だけで、全盛期は4人で息のあった掛け合いで満場の観客を爆笑させてきました。

時代劇というか、剣劇スタイルの中で縦横無尽にギャグを繰り出し、そのスピーディさは当時の関西演芸界では、異色の存在。ネタ数の多さは、関東のコントとは比べ物にならないほどでありながら、いずれも入念な稽古が必要とされるものばかりでした。

それでいて、随所にアドリブを挟み込み、クライマックスでは派手な立ち回り。そして最後はお約束の「大阪名物・ハリセンチョップ」で締めるという、まさに完成された芸でした。後に、剣戟コントを見せるグループも数組登場しましたが、芸のクオリティはともかく、ネタの数が圧倒的に少なかったのは事実。やはり、殺陣を含めて、入念な稽古を要するからでしょう。

逆にいえば、それだけチャンバラトリオが偉大だったということ。当人たちが自ら苦労話をするタイプではなかったからか、その業績はまだまだ過小評価されているように思います。確かに大阪では1980年代に入るまで、コントが根付くことはありませんでしたが、チャンバラトリオの存在は、関東のコントグループと同列、あるいはそれ以上に語り継いでいくべきだと思います。