広川峯啓の“笑いま専科”

広川峯啓の“笑いま専科”

2010年10月

10月 27日

日本コント史 その4「クレージーキャッツの時代」(中編)

昭和30年初期に、新宿のジャズ喫茶等で音楽コントを演じ、喝采を集めていたクレージーキャッツ。彼らがやっていた音楽コントの源流をたどっていくと、漫才と共通の祖先である古典芸能「万歳」の存在がありました。

中世から近代にかけて、大衆を楽しませてきた万歳が、お囃子を漫才へと姿を変えたのが昭和初期。ちょうど同時期に登場したのが、西洋楽器を携え「ジャズ漫才」と称したあきれたぼういずの4人でした。

彼らの凄かったのは、レビューや万歳の掛け合いを取り入れ作り上げた芸が、日本はもちろん、海外にも類を見ないオリジナルなスタイルになったということ。

このスタイルは、グループ名をとって「ボーイズもの」と呼ばれ、現代まで連綿と受け継がれています。こちらについても、語りだすと際限なく続いていきそうなので、これはこれで、そのうちタイミングを見計らってじっくりと…。

あきれたぼういずの登場したほぼ同時期、海を隔てたアメリカに目を向けると、偶然の一致というべきか、笑いと音楽を融合させたユニットが出現していました。スパイク・ジョーンズ(以下、SJと略)と彼の率いる楽団、シティ・スリッカーズです。

もちろん、この日米の2グループに接点はありませんでした(おそらく)。何しろ、太平洋戦争勃発直前の緊張した時期であり、SJは敵国ドイツの総統・ヒットラーをからかう歌を作っていました。互いの情報が行き交うことなど考えられなかった時代だけに、何か不思議な繋がりを感じてしまいますが。

戦後になって、SJに魅せられた日本人が現れます。当時、新進気鋭のドラマーとして名を馳せていたフランキー堺です。アメリカから空前のジャズブームが押し寄せていた中、彼は正統派のジャズに飽き足らず、演奏の中にクシャミやうがい、風船の割れる音などを盛り込んだ(もちろんライブで!)SJの冗談音楽に耳を奪われました。

フランキーは自身の楽団にSJをリスペクトして、シティ・スリッカーズと名づけ、クラシックからジャズまでを縦横無尽にパロディ化するスタイルを、日本に移植します。前編でも記しましたが、このバンドに在籍していたのが、植木等と谷啓。特に谷啓は、フランキー以上にSJへの傾倒ぶりを発揮し、独自の音楽ギャグも考案していました。

というわけで、前編からかなりの迂回をしてきましたが、改めてフランキー堺とシティ・スリッカーズこそが日本の音楽コントの先駆けであると、ここに断言したいと思います。異論は…大歓迎です!

今回はほとんどクレージーに触れられませんでしたが(汗)、次回後編では、音楽コントから始まった彼らが、音楽抜きのコントでも日本を席巻するまでに至った経緯をたっぷり紹介していきます(後編に続く)。

10月 25日

日本コント史 その4「クレージーキャッツの時代」(前編)

前回、詳しく記したように、テレビ放送の開始によって、日本のコントも大きな変革を迎えます。それまで笑いの芸能の主流だった落語や漫才に比べて、大きな動きのあるコントはテレビ向きといえました。

テレビ局はコントの演じ手を各方面に求め、ストリップ劇場等に出演していた芸人を獲得。それだけではなく、寄席、演芸場はもちろん、さまざまな芸能の現場へとスカウトの手が伸びます。

新たなスターは意外な所に潜んでいました。昭和30年代初期の新宿ジャズ喫茶「ACB(アシベ)」。ここで定期的に演奏を披露していたのが、ハナ肇とクレージーキャッツという「ジャズバンド」でした。

もともとは、キューバンキャッツという正統派のバンドとしてスタートしたクレージーが、ACBで披露していたのは、一流のセンスと技術に裏打ちされた「音楽コント」でした。「コミックバンド」という呼び方もありますが、どちらにしても演奏の腕が確かでないと、笑いに繋がらないことは間違いありません。

グループのスターは当時から植木等で、楽器のパートはギターながら、メイン・ボーカル的存在で輝きを放ってました。「のど自慢」のパロディや、バンド内のいさかいをギャグで包んで見せた音楽コントは、回りが正統派のジャズバンドばかりだったこともあって、当時の若者達の支持を集めます。

とは言っても、日本で音楽コントを始めた元祖が、クレージーキャッツという訳ではないんですね。彼らの先輩格といえるバンドに、植木等や谷啓も以前所属していた「フランキー堺とシティ・スリッカーズ」がありました。

じゃあ、彼らこそが元祖なのか? そう言い切ってしまおうとしたら、「その『音楽コント』ってそもそも何なの?」って声が、どこかから聞こえてきました(笑)。そっかー、やっぱ、そこから検証しなきゃですね(と、テーマは変わっても「脱線」グセは直らないようで)。

いま、漫才といえば、センターマイクを挟んで2人が掛け合うものですが、古くは羽織袴に身を包み、三味線や鼓を持って演じるのが基本でした。というか、漫才のルーツである「万歳」は、音曲や節回しとともに演じられる古典芸能ですから。

時代は流れて、大正から昭和へと元号が変わると、楽器を手放しスーツに身を包んだサラリーマンスタイルのモダンな漫才師が登場。すぐに、これが旧来の万歳に取って代わります。

しかしその一方で、音曲を奏でながら笑いを取るという形式は踏襲しつつ、三味線の代わりにギターやベース、パーカッションを使い、流行のジャズソングを歌い演奏する男達が登場しました。彼らの名を「あきれたぼういず」と言います。

10月 21日

日本コント史  ちょっと休憩編

昭和初期、日本にコントが誕生した経緯からはじまり、テレビ放送開始によって、電波に乗ったコントが、日本中のお茶の間を爆笑させるようになったところまで進んだ「日本コント史」。

勝手気ままに書いてるように見えるかもしれない当コラムですが、筆者にとって実は、当初から頭の片隅でくすぶり続けている一つの問題がありました。それは「コントを演じる人をどう呼ぶべきかという問題です。

最近では、漫才師に対応して「コント師」という呼び方が広まり、筆者も時々使っています。ただ、歴史上の人物ともいえる諸先輩方を、最近の呼称で括ってしまうことには、やや違和感を感じてしまいます。今後、NHKをはじめ各メディアで「コント師」という言葉が普通に使われるようになれば、対応も変わってくるかもしれませんが、

そこで、頻繁に使っていたのが「芸人」という呼び方。少なくても今は、この言葉に差別的な意図を込める人間は少ないと思いますが、そう呼ばれることを快く思わないベテランの方々は、今もいらっしゃるようです。

その昔、今ほどお笑いという芸が高く評価されていなかった頃に、見下すような態度で「芸人!」と呼ばれた経験があるからなのかもしれません。もちろん、そういった感情も十分に尊重すべき事だと思っています。

そんな先輩方が、自らを称した言葉が「喜劇役者」です。前回紹介した由利徹も、こう呼ばれることを好んでいました。コントよりも喜劇の方が格上というイメージもあったのかもしれません。

この、コントとか喜劇とかのジャンルを表す用語についても、皆さん様々な思いをお持ちのようです。コメディ、軽演劇、ドタバタ、アチャラカなど色々ありますが、指し示す範囲を厳密に定める人もいれば、この言葉については差別の意味があるから使ってくれるなという方までいます。

あっ、「色もの」という言葉も差別というか、もともとは芸に格差を付けるための用語でした。しかも演じる舞台、さらには地域によって指し示す対象が違ってくるという超難解な言葉なんです。

ここまで入り組んでしまったのは、理由があります。古くから観客に笑いを提供する仕事をしてきた人々が、そのことに誇りや自負をもちながらも、同時に奇妙なコンプレックスも抱えてきたことに原因があるのでは。

こうした複雑怪奇な言葉達を、誰にも納得できるように使うことは至難の技では。中には見当違いの言葉遣いだったり、一部の方にとっては不愉快な物言いになっていことがあるかもしれません。ただし、筆者としては芸人でもアチャラカでも、リスペクトは込めても、下に見る思いは一切ないことだけは、お断りしておきます。

最後にまた、あえて芸人という言葉を使いますが。コントを演じている芸人は舞台や映画での芝居を、見事に演じきることはできても、その逆を考えた場合、ほとんどの俳優はお手上げでしょう。そう考えた時、むしろコントで笑わせられる資質を持っていることは、並の俳優より格が上に思えたりするんですが…。
10月 18日

日本コント史 その3「脱線トリオ・たそがれシリーズ」(後編)

1950年代にスタートしたテレビ放送は、日本のエンタテインメント業界に著しい改革をもたらせます。中でも、比較的早々と恩恵を受けたのが、ストリップなどの幕間でコントを演じていた芸人達でした。

開局早々で番組の絶対数が足らないテレビ局は、すぐに電波に乗せられるネタを持った浅草などの芸人に注目。中でも、最初にブレイクを果たしたのが、由利徹、八波むと志、南利明からなるユニット、脱線トリオです。

「お昼の演芸」という番組の中で、彼らが毎回演じたコント「たそがれシリーズ」はたちまち大人気。それまでマイナーな存在だった舞台芸人が、テレビタレントとして日本中に知られる存在に。

「脱線トリオ」とはうまく名づけたもので、彼らは浅草、新宿で繰り返し演じてきた、筋の有って無いようなコントを、台本やリハーサルから大幅に脱線しながら、観客を爆笑の淵に追い込むのでした。ストリップ目当ての観客を力づくで沸かせてきた実績が実を結んだ瞬間でした。

この出世劇を見て、心穏やかでなかったのが、同じように各地の舞台でコントや喜劇を演じてきた面々。「あいつらにできて、オレたちに出来ない筈がない!」とばかりに、多くの芸人がテレビへの進出に野心を燃やします。

その中の1人だったのが、後に国民的人気を獲得する渥美清。芝居仲間の谷幹一、関敬六とともにスリーポケッツというユニットを結成。一時期テレビの世界で人気を博したものの、そこから渥美ひとりがスルリと抜け出し、トリオは短期間で事実上解散となりました。

ちなみに、これで3人の友情が壊れたわけではなく、「男はつらいよ」シリーズには谷、関が頻繁に出演し、浅草の軽演劇を継承した関敬六劇団に渥美がゲストで出たこともあったといいます。

そのほかの芸人も、テレビという新天地での飛躍を夢見て、あくなき挑戦を重ねていました。しかしその大半は、テレビという狭いスペースに納まることができず、舞台へ逆戻りしたり、芸人そのものをやめたりと、さんざんな挫折を味わいます。

その代表格が、浅草で劇団を率いたこともあった萩本欽一。生放送の制約に縛られ、CMコメントをまともに言えず、すぐに降ろされたとか。後にテレビ界を代表する人物になったことを思うと、意外なエピソードですが。

一方、笑いに理解がある関西では、テレビ開局当時から舞台出身の芸人、役者が積極的に起用されてきました。やがて、関西発のコメディが日本中で人気を集めはじめ、大村崑、芦屋雁之助など、関西からも次々にブレイクするタレントが登場しました。

この時期なぜか、東京では脱線トリオ以外のコントは受け入れられませんでした。ただ、数年のブランクを経て昭和40年代に入ると、突然のように脱線の系譜を継いだトリオコントのブームが巻き起こります。

10月 15日

日本コント史 その3「脱線コント・たそがれシリーズ」(前編)

1953年(昭和28)、NHKと日本テレビでテレビ本放送が開始され、戦後日本に大きな変化をもたらせました。その影響で、浅草や新宿でストリップの幕間にコントで奮闘してきた芸人達にも大きな転機が訪れます。

開局したばかりのテレビ局は、今の言葉でいう「ソフト不足」に陥っていました。当時隆盛を極めていた映画業界は、所属する俳優がテレビに出演することを禁止。全国的な人気を獲得していた落語家の面々も、人気者はみんなラジオ局の専属となってました。

そんな中、笑いを提供する番組を作るために目を付けられたのが、日々コントと格闘していた芸人たち。なんといっても、彼らにはすぐ電波に乗せられる、「持ちネタ」という強力ソフトのストックがありました。

娯楽番組作りのため、ディレクターたちは各地の劇場を回って才能ある芸人を発掘したといいます。そんな出世コースに乗った芸人達の第一号的存在が、由利徹、八波むと志、南利明の3人からなる脱線トリオでした。といっても、このユニット名はテレビ出演が決まった後に付けられたものですが。

ついでに、このコラムも少し脱線します(笑)。昭和30年代にNHKで国民的人気を博したコメディに「お笑い三人組」という番組がありました。主要メンバーは、落語家の三遊亭小金馬(現・金馬)、動物物真似の江戸家猫八(先代)、講談師の一龍斎貞鳳の3名。

番組以外では、個人で活躍してきた面々ですが、NHKの番組を担当する以前に、日本テレビでも3人で組み、番組内で時事コントを演じていました。その面白さに目を付けたNHKが、3人一緒に引き抜き(といっても、契約書を交わしていたわけじゃないのですが)、新たな番組を立ち上げたわけです。

突然、番組に穴があいた日本テレビは、急きょ代わりのメンバーを探し出し、集まったのが脱線トリオと名付けられました。トリオコントの元祖は間違いなく彼らですが、さらにその源流にはお笑い三人組(これもNHKで付けたもので、当時は3名連記)がいたことは、記憶にとどめておくべきでしょう(おっ、何とか軌道修正できた!)。

そんな「お昼の演芸」という番組の中で彼らが演じたコントは、「たそがれシリーズ」と呼ばれ、大いに人気を集めます。評判を耳にした多くのコント芸人たちは、自分だってこのブラウン管の中に入って、日本中を笑わせられる筈だと、自信半分嫉妬半分の思いを強くしていたのでした。(後編に続く)

livedoor プロフィール
「週刊テレビガイド」「TV Bros.」等の編集者として、客観的な目で見ることのできる立場からテレビと接する。 平成10年 フリーのライターとして独立。依然としてテレビ関係の記事、コラムを中心に活動。数年がかりの仕事として、日本テレビ50年史(非売品)の記事、コラムを共同執筆する。ミーハーさとマニアックさを合わせ持った目線で、ありとあらゆるバラエティを紹介していきます。

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