広川峯啓の“笑いま専科”

広川峯啓の“笑いま専科”

2010年11月

11月 30日

日本コント史 番外編その2「関西はコント不毛の地?」

前回のラストで、トリオコントに代わる超大型コンビの出現(40代以上の方なら、勿論御存知でしょうが)をにおわせたところで、またまた小休憩です。ここまで、コントの歴史を駆け足(これでも!)で振り返ってきましたが、東京中心に偏っていたことは認めないわけにはいきません。

テレビ放送にしても、1953年に日本テレビが開局したのに続き、56年には関西初のテレビ局、大阪テレビ(後に朝日放送と合併)が開局。そこでは、中田ダイマル・ラケット、大村崑など関西の芸人が出演するコメディが人気を集めており、全国ネットされる番組も少なくありませんでした。

ただ、コントというジャンルについては、今ひとつ大阪では盛り上がりに欠けた感があります。何しろ「2人よれば漫才になる」と称されるほど漫才が根付き、芝居についてはそれ以上の長い歴史を誇るのが上方の文化。小人数で舞台に立つのに、わざわざ小道具を必要とするコントは不向きだったのかもしれません。

その一方で、作家が練りに練った台本で演者一同が稽古に稽古を重ねて披露する喜劇(コメディ)は、古くから安定した人気を集めてきました。テレビ創成期から関西発のコメディ番組が、数多く全国ネットされたのも、もともと高いクオリティを持っていたからでしょう。

そんな関西にあって、コントグループとして孤軍奮闘したのが、1963年に結成されたチャンバラトリオでしょう。トリオと言っても3人組だったのは結成当初だけで、全盛期は4人で息のあった掛け合いで満場の観客を爆笑させてきました。

時代劇というか、剣劇スタイルの中で縦横無尽にギャグを繰り出し、そのスピーディさは当時の関西演芸界では、異色の存在。ネタ数の多さは、関東のコントとは比べ物にならないほどでありながら、いずれも入念な稽古が必要とされるものばかりでした。

それでいて、随所にアドリブを挟み込み、クライマックスでは派手な立ち回り。そして最後はお約束の「大阪名物・ハリセンチョップ」で締めるという、まさに完成された芸でした。後に、剣戟コントを見せるグループも数組登場しましたが、芸のクオリティはともかく、ネタの数が圧倒的に少なかったのは事実。やはり、殺陣を含めて、入念な稽古を要するからでしょう。

逆にいえば、それだけチャンバラトリオが偉大だったということ。当人たちが自ら苦労話をするタイプではなかったからか、その業績はまだまだ過小評価されているように思います。確かに大阪では1980年代に入るまで、コントが根付くことはありませんでしたが、チャンバラトリオの存在は、関東のコントグループと同列、あるいはそれ以上に語り継いでいくべきだと思います。
11月 29日

日本コント史 その6「なぜトリオのブームだった?」(後編)

トリオ・ザ・パンチ、ナンセンストリオ、ギャグメッセンジャーズ、てんぷくトリオ、そしてコント専門ではなかったもののトリオスカイライン。彼らが昭和40年代のトリオブームを引っ張っていました。

コントの設定は、ギャングだったり、忍者だったり、インド魔術団だったりとまちまち。いずれも非日常の世界を描いてるところが、最近のコントとは大きく違うところですね。

ブームだけに「ハードボイルドだど」「♪親亀の背中に子亀を乗せて~」「びっくりしたなぁもう!」など数々の流行語を生み出しました。その辺りは、今のお笑いとピッタリ重なってます。

ただ、最近のお笑いは若手でも結成から早くても2~3年、遅ければ10年近く下積みを経験しているものの、当時のコント師たちは結成後ほどなくテレビ出演が増え、たちまちブレイクを果たしました。

というのも、皆さん、トリオ結成以前に舞台芸人として基礎をみっちり仕込んできてるんですね。ブレイクした時点で、ネタ作りの発想力から、観客を引き込む演技力、とっさの時にも対処できるアドリブの力を兼ね備えていた訳ですから、あっという間に日本中を席巻したのもうなづけるところです。

どのグループも必ず観客を爆笑させる鉄板ネタを持っていながら、ほとんどの所はそれに続く新ネタを量産することができませんでした。爆発的に仕事が増えれば、ネタ作りや練習の時間が削られるのは今も昔も同じ。そのうえ、もともとピンで活動してきた芸人の集まりだからか、トリオを続けていくことに強い執着もなかったようです。

唯一の例外は、今は大御所となった伊東四朗も所属してた、てんぷくトリオ。故人となった三波伸介、戸塚睦夫との結束は固く、座付き作家としてあの井上ひさしに依頼し、新作コントを次々に書いてもらってきたのも、長くトリオを続けたかった証拠では。

残念なことに、病気がちで晩年は休みがちだった戸塚が1973年に亡くなったことで、トリオとしての活動にピリオドを打つことになりました。その後、リーダーの三波は日本を代表する司会者となりましたが、82年に急逝。一人残った伊東の活躍は、ご存知のとおりです。

こうしてトリオブームが終焉を迎えたのと期を同じくして、グループのいなくなった空白を、たった一組のコンビが埋めてしまうほどの大ブームを引き起こしますが、この話はまた改めて後ほど。
11月 28日

日本コント史 その6「なぜトリオのブームだった?」(中編)

昭和40年代に入って、突如巻き起こったトリオコントのブーム。そこには、あるテレビ番組の大きな影響がありました。その名は「大正テレビ寄席」。それまでの演芸番組とは一線を画していたのは、徹底的にスピード感を求め、今で言う「手数の多いネタ」を重視したことでしょう。

45分間(当初は30分)の中で、司会・牧伸二のウクレレ漫談に始まり、演芸ネタ3本+レギュラーコーナー2本を詰め込んだ、非常にボリュームたっぷりのバラエティ。そのため、ネタの時間は1本につき約7~8分。今の感覚だと普通でも、当時としては相当に短い尺と見られ、かしまし娘などいつものテーマソングを毎回はしょってた程でした。

そのスピード感を表わすのに最適だったのが、トリオのコント。立ちっぱなしの漫才や落語(この番組に限り、噺家も立って高座を勤めました)と違い、舞台を広く使うコントは、演芸ファン以外のテレビ視聴者にも人気を呼びました。

いち早く日劇ミュージックホールで売れっ子になったトリオ・ザ・パンチをのぞき、ほとんどのトリオがこの「大正テレビ寄席」をきっかけにブレイクしました。今と違い、各局でコンスタントに演芸番組を放送してのに、専らここから人気芸人が次々誕生したのには、2つの大きな要素がありました。

一つは番組の収録場所が渋谷の一等地だったこと。そのため、若者を中心に、都会的なセンス(って、最近使わない言葉ですが)持った層が、観客として集まりました。もう一つは、入場料をしっかり取ったこと。無料の観客なら、ディレクターの指示で笑ったり拍手したりを強制されますが、この番組では、本当に面白い芸でなければ爆笑は生まれませんでした。

例え無名の芸人でも大受けするスペース。当たり前のように見えて、作り出すことはなかなか容易じゃなさそうです。ルミネ吉本は、この2条件を満たしているように見えるけれど、どうなんでしょうか。(と、いつものように脱線気味ですが、後編で見事に軌道修正する、予定です)
11月 26日

日本コント史 その6「なぜトリオのブームだった?」(前編)

コントの歴史をひもといて、バラバラにしてしまっている(笑)この長編コラム。前回は、テレビという存在によって新たな展開を迎えたコントの世界を紹介しましたが、ここから時代は昭和40年代へと差し掛かります。

東京オリンピックの開催を経て、テレビもカラー放送が開始されました。バラエティ番組も華やかな歌や踊りが脚光を浴びたようですが、その一方で演芸番組も「カラー寄席」など、カラー化が進みました。

その影響なのか、落語や漫才が中心だったところに、動きが派手で衣装も凝らしたコントが注目を集めるようになりました。

そのコントグループは、なぜか3人編成のものが主流でした。これはテレビが育てた初のコントグループが脱線トリオだったことから、制作サイドに「コントは3人で演じるもの」という固定観念があったようです。

また、最初に人気を獲得したのが、内藤陳の率いるトリオ・ザ・パンチだったことも、コント=トリオという考えを加速させました。

続いてブレイクしたのが、ナンセンストリオ、ギャグメッセンジャーズ、てんぷくトリオなど。あと、漫才のなかで3人の個性を発揮させたトリオスカイラインも、同じ括りで見られることが多かったようです。

彼らに共通するのが、やはり浅草等の劇場出身の芸人だということ。また、浅草には落語以外のいわゆる色物専門の寄席、松竹演芸場があり、ここで人気を集めた後にテレビへ進出したユニットが大半でした。

いわば、コントグループにとっての登竜門でしたが、テレビにも同じく登竜門と呼ぶべき番組がありました。(中編に続きます)
11月 22日

日本コント史 その5「夢であいましょう」が伝え残すDNAとは?(後編)

「夢であいましょう」(以降「夢あい」と略)が、他のバラエティとの違いを見せていたのは、全体的に笑いの中にシャレっ気があふれていた点でしょう。

シャレっ気とは「おシャレ」とは似て非なるもの。ただ、その違いを説明するのは容易なことじゃありません。英語だとウイット、フランス語だとエスプリなんて言いますが、国民性の違いが言葉にも現れるのか、少しニュアンスが違うんですよね。

日本の文化で説明すると、川柳とか、いま流行りの謎掛けなどにはシャレっ気があふれています。どちらもユーモラスであっても、爆笑を呼ぶものじゃない。思わず「にやり」と笑顔にさせるのがシャレっ気なんです。

「夢あい」の中には、爆笑のコントもありましたし、出演者のアドリブで司会の中島弘子を吹かせることも珍しくありませんでした。ただ、番組の大部分は「にやり」とさせるシャレっ気で構成されていたように思います。

その代表例が毎回のオープニングでしょう。普通なら、決まったものを使うか、多少アレンジを変えるかでしょう。「夢あい」では吉村祥による毎回異なるタイトル画(時には立体的な作品になることも)が披露されました。

毎週見ている視聴者に「今週はその手で来たか」と「にやり」とさせるために趣向をこらしていたのです。もちろん全体的にも、毎回同一テーマのもとで、コント、歌、トークを巧みに融合させるという構成が、シャレっ気によって成り立っていました。

そんな「夢あい」の精神は、後の番組に受け継がれたのでしょうか。終了から13年後の1979年にスタートした「ばらえてい テレビファソラシド」には、確実にDNAが継承されていました。ただ、これは演出・末森憲彦と永六輔のコンビが再会して作られた番組であり、継承という意味合いとは、また別ものでしょう。

その後、「情報バラエティ」というジャンルが人気を集め、知的な番組と評価もされました。しかし、そこからは「シャレっ気」は感じられませんでした。例外ともいえるのが、90年にオンエアされたフジの深夜番組「カノッサの屈辱」ですが、これについては回が進んだところで触れたいと思います。

そんな中、数少ないDNAの継承者といえるのが、「てれびふぁそらしど」のレギュラーでもあったタモリでは。タモリでコントといえば「今夜は最高」が思い出されますが、むしろ素のタモリが全面に出ている番組にシャレっ気を感じます。

「タモリ倶楽部」もシャレのきいた番組ですが、昨年スタートした「ブラタモリ」は、知的バラエティの新たな形を確立させたという点では、スタイルは全く違うものの、DNAを受け継いでいるのでは。NHK制作ということも関係しているのかもしれません。

全編にタモリの知識、ウイット、警句等があふれ、それだけで散歩番組として充分成立しているにもかかわらず、毎週新たに作られるCG映像。意図的かどうかは別にして、あの部分には充分「シャレっ気」を感じてしまいます(笑)。
プロフィール

hirokawa takaaki

「週刊テレビガイド」「TV Bros.」等の編集者として、客観的な目で見ることのできる立場からテレビと接する。 平成10年 フリーのライターとして独立。依然としてテレビ関係の記事、コラムを中心に活動。数年がかりの仕事として、日本テレビ50年史(非売品)の記事、コラムを共同執筆する。ミーハーさとマニアックさを合わせ持った目線で、ありとあらゆるバラエティを紹介していきます。

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