広川峯啓の“笑いま専科”

広川峯啓の“笑いま専科”

2010年11月

11月 17日

日本コント史 その5「夢であいましょう」が伝え残すDNAとは?(中編)

「夢であいましょう」(以降「夢あい」と略)の前身、「午後のおしゃべり」は1959年にスタートしました。番組を束ねるディレクターの末盛憲彦は、当時30歳。テレビに限らず、新しい時代を切り開くのは、常に若い世代だということが分かります。

構成を担当したのは、いわゆるトリローグループとして「冗談音楽」に作家として参加していた永六輔、キノトールら。開局間もない民放ラジオ、テレビで大活躍していた2人ですが、「古巣」であるNHK初のテレビバラエティでも、ペンをふるいます。

当時、新進作詞家としても注目を集めていた永六輔は、日本テレビの人気バラエティ「光子の窓」の構成作家としても、忙しい日々を過ごしていました。ところが、60年6月15日の安保阻止、国会突入を行ったデモ隊に参加した事で、締め切りの台本をすっぽかしてしまい、そのせいで番組を降ろされたといいます。

「光子の窓」のディレクターで、日本のバラエティの育ての親とも言われる井原高忠によれば「思想うんぬんではなく、約束を守らなかったことに対しての措置」だとか。何にしても、この降板があったからこそ、「夢あい」の専任作家として6年間、番組を支えてきたのは事実。運命の不思議さを感じてしまいます。

当時でも、大勢のタレントが出演するバラエティは、複数の構成作家で担当するのが普通でしたが、「夢あい」は最後まで1人の作家が台本を書いていました。そのため、毎週1つのテーマで括られた中で、コント、トーク、歌とダンスが絶妙にリンクした30分を、日本中のお茶の間が楽しめたのでした。

黒柳徹子、渥美清、谷幹一、ミスター珍、E・H・エリック、坂本九、坂本スミ子といった豪華出演陣も、NHKだから集められたメンバーといえるのでは。渥美清が演じるコントの面白さは、当時でも「夢あい」でしか味わえなかったとか。

寅さんとは全く違う、そのキャラクターは、お笑い好きなら一度は見ておくべきでしょう。幸いにも全国のNHK「番組公開ライブラリー」で、現存する十数話を閲覧できるそうですので、ぜひ(と、盛り上がったところで、後編に続きます)。
11月 15日

日本コント史 その5「夢であいましょう」が伝え残すDNAとは?(前編)

前回、クレージーキャッツの項では「シャボン玉ホリデー」を取り上げました。となれば、TVバラエティ黎明期の代表的プログラムとして、NHKの「夢であいましょう」(以降「夢あい」と略)を忘れるわけにはいかないでしょう。

とは言え「夢あい」について語るには、その多くのエッセンスを受け継いだ、先駆けになる番組について紹介しなくてはいけません(って、またそのパターン?)。種々雑多に見えるコントも、歴史の流れの中で複雑に繋がり合っているんですね。

では「夢あい」のルーツとは何なのか? 前身的番組といわれているのは、同じNHKで1959年10月から61年3月まで放送されていたバラエティ「午後のおしゃべり」。司会はファッションデザイナーの中島弘子で、そのまま「夢あい」に受け継がれました。

要するに、お昼に放送していたバラエティが、あまりにも評判高かったので、夜の枠に移動し、予算も増えて出演者、セット等も豪華になったというケースです。今で言えば、深夜からゴールデン昇格パターンっすね。

さらに、この源流をたどると、一本の番組へと行き着きます。というか、広い意味では日本のバラエティの元祖といえる番組に。それこそが、終戦直後に始まったNHKラジオ放送(といっても、この時点ではこれ以外の放送メディアはないんですが)の「日曜娯楽版」でした。

日曜夜に日本中の家庭が聞いていたといわれる超人気番組。特に目玉コーナーの「冗談音楽」では、世相風刺と政府への批判が、圧倒的支持を集めます。

とは言っても、そこには上質なユーモアに加え、タイトルどおりに軽快な音楽がふんだんに盛り込まれていました。替え歌、オリジナルソング、そしてジョークとジョークを繋ぐブリッジ。そのことをとっても、同時期の番組の中で、かなり都会的で洗練された番組といえるでしょう。

番組を率いたのは、元祖マルチクリエーターと呼ぶべき才人、三木鶏郎でした。彼の最大の功績の一つに、番組作りのために若き才能を次々に向かい入れ、トリローグループと呼ばれる集団を築いたことがあります。

俳優、放送作家、歌手、作曲家などさまざまなジャンルから集められ、多くの人物を第一線へと送り出しました。その中でも永六輔、キノトールらの放送作家によって形作られたバラエティが「夢あい」であり、そこには「冗談音楽」に負けず劣らず、上質の音楽が盛り込まれていました。

「音楽」と「笑い」と「情報」の3つが、バラバラに詰め込まれてるのではなく、渾然一体となって融合する。そうした構成こそが、「夢あい」が「冗談音楽」から受け継いだDNAといえるでしょう。
11月 1日

日本コント史 その4「クレージーキャッツの時代」(後編)

時代が近づいてくると、やっぱりお話したいことが増えてくるようで、この先どんどん長くなっていくんじゃないかと、かなり本気で心配しています。

前回はクレージーキャツツの原点である音楽コントの変遷をたどっていくあまり、クレージーそのものにはほとんど触れられませんでした(笑)。ということで、一躍メジャーに躍り出た彼らが、芸能界に一時代を築くまでを、できるだけ要領よくお伝えしていきます。

もちろん、クレージーキャッツおよび、そのメンバーが日本の芸能界に果たした役割は、あまりにも大きく、それだけで一冊の本が書けてしまうほど。したがって、ここではそのごく一部にしか触れられないことを予めご了承ください。

昭和30年代前半、ジャズ喫茶で人気を集めたクレージーキャッツは、フジテレビ開局とともにスタートした、時事コントの帯番組「おとなの漫画」に起用されます。ここから彼らのブレイクが始まったと、さまざまな書籍等では記されていますが、日本中にクレージーの名を知らしめたのは、36年にリリースされた「スーダラ節」の大ヒットからでしょう。

一躍、人気タレントの仲間入りを果たした彼ら。さらにその人気を拡大させたのが、ザ・ピーナッツとともにメインを勤め、高視聴率の長寿番組となった「シャボン玉ホリデー」(日本テレビ系)のスタートでした。

歌とコントをバランスよくミックスさせたバラエティショーは、たちまち日曜夜に欠かせない人気番組として、日本全国のお茶の間に笑いを運びました。「およびでない」が代表的ギャグとして広まりましたが、「シリーズコント」ともいうべき、同一設定、同一キャストによる定番コントも、番組を象徴するものでした。

「運動会」や「クリスマス」など毎回、決まったテーマのもとで進められるのですが、「おとっつぁん、おかゆができたわよ」の名台詞で知られる時代劇コントや、監督に扮したなべおさみが「ヤスダーっ」と叫ぶ撮影所コントなどが、頻繁に登場したものでした。

毎度変わらない設定で、オチもそれほどひねってなくても、お馴染みのキャラクターに愛着が沸き、お約束的雰囲気もお茶の間に受け入れられたのでは。スタッフにとっては何かと都合の良いこのスタイルは、その後のバラエティ番組にもしっかり受け継がれました。

番組の成功で、渡辺プロのトップに君臨したクレージー。だからなのか、共演のピーナッツはもちろん、ゲスト出演するナベプロの歌手のほとんどが、コントを演じることが必須になっていきます。

やがて、日本一の芸能プロの方針は、全芸能界へと引き継がれることに。その後、大小のさまざまな後継的バラエティでも歌手がコントに参加することが当然という流れになりました。

これによって、テレビバラエティのコントはお茶の間に親しまれやすいものになっていきましたが、その反面、プロのコメディアンだけで演じられるコンのクオリティを、それほど求めなくなってしまったことも事実です。

先ごろ亡くなった谷啓さんの時もそうでしたが、追悼の意味でオンエアされるのは、クレージーをはじめ実力あるコメディアンが結集した往年のコントばかりです。しかし、その下にはもっとゆるい(決して悪い意味ではなく)コントが量産されていたということも、記憶にとどめておいていただきたいです。

プロフィール

hirokawa takaaki

「週刊テレビガイド」「TV Bros.」等の編集者として、客観的な目で見ることのできる立場からテレビと接する。 平成10年 フリーのライターとして独立。依然としてテレビ関係の記事、コラムを中心に活動。数年がかりの仕事として、日本テレビ50年史(非売品)の記事、コラムを共同執筆する。ミーハーさとマニアックさを合わせ持った目線で、ありとあらゆるバラエティを紹介していきます。

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