70年代前半に、バラエティやコメディドラマで大人気を獲得した堺正章の父親は、戦後、名喜劇役者として鳴らした堺駿二。だからなのか、コントを演じても、喋りで笑わせることが多くなる歌手の中にあって、マチャアキは動きで笑わせることができ、それが数々のバラエティ番組を成功させた一因でした。
同じくスパイダースの一員だった井上順も、堺とのコンビ芸をはじめ、単独での司会でも芸達者なところを見せました。比較的お笑い人気が下火だった70年代を、彼らが支えてきたことは、当時、予算たっぷりのすぐれたコントを多く作り出してきた「オールスターかくし芸大会」での、乗りに乗った主演ぶりを見れば分かります。
そんな彼らがレギュラーとして始まったバラエティー「カックラキン大放送」には、新御三家と言われた郷ひろみ、野口五郎、西城秀樹など当時の人気歌手が軒並みゲストで出演し、コントにも参加しました。芸人である坂上二郎や車だん吉も、レギュラーの一角を占めていたものの、重鎮としてあくまでも脇を固める存在であり続けました。
女性タレントでは、現在も活躍する研ナオコ、和田アキ子がバラエティで頭角を見せ始めたのが、この時期です。当時、芸人の中でもコントのできる女性は少なく、彼女たちこそが、現在活躍する数多い女性芸人のルーツと言えなくもありません。
和田アキ子メインでスタートしたバラエティ「金曜10時!うわさのチャンネル!!」も、コントの多いバラエティでした。コントの中にハプニングを取り入れたり、ゲストの歌手が持ち歌を歌っている時にギャグを挟み込んだりと、常に新たな試みを取り入れていた、野心的な番組でした。
せんだみつおをはじめ、数多くのタレントがここからブレイクしたことも、特筆すべきでしょう。タモリ、所ジョージもこの番組が出世作になりましたし、元日本テレビアナウンサーの徳光和夫も、ここで笑いの才能を開花させたようです。
「うわさのチャンネル」も「カックラキン」も「ゲバゲバ」と同じく日本テレビ制作でした。70年代までの優秀なバラエティーは、大半が日テレ制作でした。そこには井原高忠プロデューサーの遺伝子が、直接的間接的にかかわらず、脈々と流れていたのです。
次回は、嵐の前の静けさともいえる「漫才ブーム前夜」について。まだまだ、この先コントの世界には、激動の展開が待ち受けていますが、年明け早々というキリの悪いところ(笑)で、ひとまず「第一部 完」とさせていただきます。では、皆様よいお年を。
同じくスパイダースの一員だった井上順も、堺とのコンビ芸をはじめ、単独での司会でも芸達者なところを見せました。比較的お笑い人気が下火だった70年代を、彼らが支えてきたことは、当時、予算たっぷりのすぐれたコントを多く作り出してきた「オールスターかくし芸大会」での、乗りに乗った主演ぶりを見れば分かります。
そんな彼らがレギュラーとして始まったバラエティー「カックラキン大放送」には、新御三家と言われた郷ひろみ、野口五郎、西城秀樹など当時の人気歌手が軒並みゲストで出演し、コントにも参加しました。芸人である坂上二郎や車だん吉も、レギュラーの一角を占めていたものの、重鎮としてあくまでも脇を固める存在であり続けました。
女性タレントでは、現在も活躍する研ナオコ、和田アキ子がバラエティで頭角を見せ始めたのが、この時期です。当時、芸人の中でもコントのできる女性は少なく、彼女たちこそが、現在活躍する数多い女性芸人のルーツと言えなくもありません。
和田アキ子メインでスタートしたバラエティ「金曜10時!うわさのチャンネル!!」も、コントの多いバラエティでした。コントの中にハプニングを取り入れたり、ゲストの歌手が持ち歌を歌っている時にギャグを挟み込んだりと、常に新たな試みを取り入れていた、野心的な番組でした。
せんだみつおをはじめ、数多くのタレントがここからブレイクしたことも、特筆すべきでしょう。タモリ、所ジョージもこの番組が出世作になりましたし、元日本テレビアナウンサーの徳光和夫も、ここで笑いの才能を開花させたようです。
「うわさのチャンネル」も「カックラキン」も「ゲバゲバ」と同じく日本テレビ制作でした。70年代までの優秀なバラエティーは、大半が日テレ制作でした。そこには井原高忠プロデューサーの遺伝子が、直接的間接的にかかわらず、脈々と流れていたのです。
次回は、嵐の前の静けさともいえる「漫才ブーム前夜」について。まだまだ、この先コントの世界には、激動の展開が待ち受けていますが、年明け早々というキリの悪いところ(笑)で、ひとまず「第一部 完」とさせていただきます。では、皆様よいお年を。