広川峯啓の“笑いま専科”

広川峯啓の“笑いま専科”

2010年12月

12月 30日

日本コント史 その9「芸人主導?スタッフ主導?」(後編)

70年代前半に、バラエティやコメディドラマで大人気を獲得した堺正章の父親は、戦後、名喜劇役者として鳴らした堺駿二。だからなのか、コントを演じても、喋りで笑わせることが多くなる歌手の中にあって、マチャアキは動きで笑わせることができ、それが数々のバラエティ番組を成功させた一因でした。

同じくスパイダースの一員だった井上順も、堺とのコンビ芸をはじめ、単独での司会でも芸達者なところを見せました。比較的お笑い人気が下火だった70年代を、彼らが支えてきたことは、当時、予算たっぷりのすぐれたコントを多く作り出してきた「オールスターかくし芸大会」での、乗りに乗った主演ぶりを見れば分かります。

そんな彼らがレギュラーとして始まったバラエティー「カックラキン大放送」には、新御三家と言われた郷ひろみ、野口五郎、西城秀樹など当時の人気歌手が軒並みゲストで出演し、コントにも参加しました。芸人である坂上二郎や車だん吉も、レギュラーの一角を占めていたものの、重鎮としてあくまでも脇を固める存在であり続けました。

女性タレントでは、現在も活躍する研ナオコ、和田アキ子がバラエティで頭角を見せ始めたのが、この時期です。当時、芸人の中でもコントのできる女性は少なく、彼女たちこそが、現在活躍する数多い女性芸人のルーツと言えなくもありません。

和田アキ子メインでスタートしたバラエティ「金曜10時!うわさのチャンネル!!」も、コントの多いバラエティでした。コントの中にハプニングを取り入れたり、ゲストの歌手が持ち歌を歌っている時にギャグを挟み込んだりと、常に新たな試みを取り入れていた、野心的な番組でした。

せんだみつおをはじめ、数多くのタレントがここからブレイクしたことも、特筆すべきでしょう。タモリ、所ジョージもこの番組が出世作になりましたし、元日本テレビアナウンサーの徳光和夫も、ここで笑いの才能を開花させたようです。

「うわさのチャンネル」も「カックラキン」も「ゲバゲバ」と同じく日本テレビ制作でした。70年代までの優秀なバラエティーは、大半が日テレ制作でした。そこには井原高忠プロデューサーの遺伝子が、直接的間接的にかかわらず、脈々と流れていたのです。

次回は、嵐の前の静けさともいえる「漫才ブーム前夜」について。まだまだ、この先コントの世界には、激動の展開が待ち受けていますが、年明け早々というキリの悪いところ(笑)で、ひとまず「第一部 完」とさせていただきます。では、皆様よいお年を。
12月 29日

日本コント史 その9「芸人主導?スタッフ主導?」(中編)

よく、ショートコントのルーツは誰かということが話題になりますが、日本の中で源流を求めれば、やはり「巨泉・前武ゲバゲバ90分」に行き着くでしょう。中には10分近い長編もありましたが、短いものでは数秒で爆笑させるものもありました。

この番組がバラエティーの世界に及ぼした影響は、多大なものがあります。その中でも顕著だったのが、芸人を中心に置かなくてもバラエティーは作れるという認識が強まったことです。

確かに「ゲバゲバ」の面白さは、これまでの芸人が作ってきたコントとは異質でした。にもかかわらず、コント55号、ドリフターズと肩を並べる高視聴率を獲得し、「あっと驚くタメゴロー」などの流行語を生み出したのは、大げさではなく革命的出来事でした。

そこには井原高忠という名プロデューサーのもと、優秀なディレクター、構成作家を配し、高い予算を計上してきたことがあります。それだからこそのハイクオリティな完成度でした。この成功は、その後、スタッフ主導のお笑いバラエティが続々と誕生するきっかけとなりました。

期を同じくして、それまで隆盛を誇っていた、芸人たちによる演芸番組(いまの言葉でいう「ネタ番組」)が、次々に打ち切られる事態が生じました。後に「第一次」と呼ばれることになった演芸ブーム衰退の原因は、出演するメンバーに代わり映えがせず、視聴者から飽きられたことでした。

1970年代に入り、「ゲバゲバ」「全員集合」は相変わらず好調だったものの、コント55号やクレージーキャッツが担当するバラエティは、徐々に下火になりました。それに代わって台頭してきたのが、喋りが得意で芸達者な歌手たちが司会を担当する番組が台頭でした。

一口に歌手と言っても、ポップスからグループサウンズ、フォーク、演歌まで、幅広いジャンルからバラエティの世界に転進、あるいは兼業で脚光を浴びる人材が登場しました。その中でコントでも活躍を見せたタレントの代表格が、スパイダース出身の堺正章でしょう。(後編に続きます)
12月 23日

日本コント史 その9「芸人主導?スタッフ主導?」(前編)

前回、前々回と紹介してきたクレイジーキャッツもドリフターズも、もともとはバンドマンでした。しかし、お笑いの道に進んでからは、並の芸人以上に笑いと真剣に取り組み、アイデアを凝らしてきました。その意味では、並みの芸人以上に芸のスピリットを持っていました。

その一方、歌手や俳優としての本業で活躍しながら、テレビバラエティのコントに出演する面々が目立ってきたのも、ほぼ同時期でした。最初のうちは、笑いを取る芸人の引き立て役が多かったものの、次第にメインで笑いを取る歌手も増えてきました。

その元祖といえるのが坂本九。「夢であいましょう」など、テレビ黎明期からバラエティにゲスト出演し、コントも演じていましたが、軽妙なキャラクターとおしゃべりで、茶の間の人気を集めました。ほどなく「九ちゃん」「イチ・ニのキュー!」などの看板バラエティーも生まれ、もちろん番組内のコントでは爆笑の渦の中心にいました。

ただ、そのコントの監督責任者は九ちゃんではなく、プロデューサーであり、ディレクターでした。そこが、芸人中心のコントと大きく異なる点です。番組の構成作家が書いたネタであっても、それを芸人が演じる時は、より笑いが大きくなるよう様々に工夫を凝らし、最終的には別物になってしまうことも珍しくありません。

これ以降、テレビのコントは芸人主導のものとスタッフ主導のものに二分され、後者ではおもに歌手や俳優が起用されました。当時からバラエティー番組には、ゲストで歌手が出演するのが決まり事のようになっており、その代わりなのか、若手の歌手は特にコントへ頻繁に参加していました。

そういった芸人抜きのコント番組の集大成とも言えるのが、奇しくも「8時だョ!全員集合」と同時期の1969年10月にスタートした「巨泉・前武ゲバゲバ90分」でしょう。総勢20名を超えるレギュラー出演者のほとんどが俳優か歌手。例外的に萩本欽一、坂上二郎、ハナ肇が参加していますが、いずれも従来の役柄とは違った起用法でした。(続きます)
12月 21日

日本コント史 その8「しごく真っ当なドリフターズ論」(後編)

俗悪番組だ、ワーストだとPTAから長年にわたって糾弾され続けてきた「8時だョ!全員集合」とドリフターズ。その根拠として、コントの中で食べ物を粗末にし、下ネタが多いこと等が挙げられました。

しかし、実のところは教師と親をコントの設定で笑いのめし、からかい続けてきたことが不愉快だったからでは。まったく同じ理由で、PTAから叩かれた作品が、永井豪作の漫画「ハレンチ学園」でした。

番組開始一年前に「週刊少年ジャンプ」誌上で連載がスタート。「スカートめくり」など少年誌としては描写が過激ということで、激しく抗議されましたが、ホンネとしては学生紛争の影響もあり、教師を徹底して悪役に描くことが、反社会的に感じられたのでしょう。

こうした騒ぎが「全員集合」立ち上げの際に、大きな影響を与えた可能性は少なくないはず。そこに子供達が目を輝かせて飛びついたのも、前例から見て当然の結果といえます。

「全員集合」の中で、かなり頻繁に演じられたのが学校コントでした。それ以外の時も、いかりや長介は大抵の場合、常に高圧的で口うるさい「支配者」役でした。悪役が憎々しいほど、ヒーローは輝きを増します。この構図を作り上げたことが、ドリフターズ最大の功績でした。

筆者も「全員集合」を毎週楽しみにしていた世代です。個人的な思い出で恐縮ですが、当時、ドリフのリーダーは「邪魔をする人」としか思ってませんでした。特に後半のコントで、いちばん盛り上がっている時に「やめなさい!」と言って、強制終了させることにムカついてました。もちろん、それが進行役の仕事なんですが(笑)。

全国の子供達は、いばり散らす長介に反感を持つ一方で、自然と他メンバーに強い共感を持ちます。誰もが「しむら~」と呼び捨てにしてたのは、紛れもなくその証しでした。そしてもう一つ、子供ならではの傾向が、決して「マンネリ」を嫌うことなく、逆にルーティンを楽しんでいたことでした。

それまで、テレビでブレイクした芸人にとっては、持ちネタが飽きられることが最も致命的な問題でした。しかしドリフターズ以降(先輩格のクレージーキャッツにも、ある程度見られましたが)は、繰り返しのネタが頻繁に演じられるようになりました。

これ以降現在まで、お笑い芸人は子供に受けることがブレイクの条件になったようです。ただ残念なことに、観客が飽きる前から、マンネリだの一発屋だのとレッテルを貼って、身内から足を引っ張るのは納得いきません。ドリフのように25年とは言わなくても、やりようによってはお約束ネタでも、もっと長持ちさせられるに違いないのですから。
12月 16日

日本コント史 その8「しごく真っ当なドリフターズ論」(中編)

日本中の子供が「8時だョ!全員集合」に熱狂した理由の前に、長年にわたって、PTA団体からワースト番組に指定されてきた件について考えたいと思います。こういうことに限って、マスコミも積極的に取り上げてましたから(笑)。

ワースト、俗悪とした根拠は、食べ物を粗末にするギャグや下ネタが、子供たちに悪影響を与えるというもので、教育上の面からバッシングされました。しかし、いま考えると「全員集合」がPTAに糾弾された理由は、別のところにあった気がしてなりません。

PTAがもっとも不快に感じた点。それはコントの中で、終始一貫して学校教師と母親(つまりPTAですね)をからかい続けてきたことにあるのでは。しかし、子供たちが毎週目を輝かせて番組を見ていた理由も、同じくここにありました。

アニメや特撮などの子供番組には、往々にして「敵」が登場します。でもそれは、日本の支配をたくらむ独裁者や、地球侵略に燃える宇宙人など、子供の生活の中にはまったく登場しない存在です。唯一、生活観のある敵といえば、「ドラエもん」に出てくるジャイアンなどのガキ大将くらい?

しかし、子供たちにとっては、自分達の自由を奪い、圧倒的な力で頭から押さえつけてくる親や先生こそが「敵」でした。言うまでもないことですが、正しいのは親であり教師の側です。それでも子供にとって、大人はまさに「支配者」です。

しかも、子供世界にも流れる暗黙のルールで、親や先生のことを嫌う子は、「悪い子」の烙印を押されます。力も心も未熟な子供にとって、それは最大の脅威でした。この圧力に打ち勝てるほど成長した子供が、「反抗期」を迎えたと称されます。

「全員集合」のコントでは、いかりや長介扮する先生や母ちゃんが、憎々しげに怒鳴りちらし、加藤茶、志村けん等のメンバーを屈服させようとします。しかし、それをものともせず、カトケンは反抗したりバカにしたりと、抵抗を繰り返します。ここに日本全国の子供たちは、言葉にならない爽快感を味わいました。

こうした、番組上の方針について、ドリフターズおよび番組スタッフが強く意識していたのか? 関係者の執筆した「ドリフ本」には言及されていません。ただ、番組立ち上げ当時、社会現象にまでなっていた「ある作品」が、多大な影響を与えたと、筆者は強く確信しています。(と、思わせぶりに後編へと続きます)
プロフィール

hirokawa takaaki

「週刊テレビガイド」「TV Bros.」等の編集者として、客観的な目で見ることのできる立場からテレビと接する。 平成10年 フリーのライターとして独立。依然としてテレビ関係の記事、コラムを中心に活動。数年がかりの仕事として、日本テレビ50年史(非売品)の記事、コラムを共同執筆する。ミーハーさとマニアックさを合わせ持った目線で、ありとあらゆるバラエティを紹介していきます。

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