広川峯啓の“笑いま専科”

広川峯啓の“笑いま専科”

2010年12月

12月 15日

日本コント史 その8「しごく真っ当なドリフターズ論」(前編)

1960年代後半、日本を席巻したコント55号の勢いに、待ったをかけたのがご存知ザ・ドリフターズでした。一時代を築き、国民的人気を誇ったドリフだけに、結成の経緯からコント作りの舞台裏まで、事実関係についてはこちらも詳しい資料が、文章、映像等で残されています。

当事者、関係者による記録、社会風俗として世相と絡めた時評、そして土曜8時にブラウン管の前で夢中になって見ていた子供たちの思い出などは、確かにあちこちで頻繁に目にします。ただ、他のコントグループと違い、その魅力や面白さについての客観的評価となると、不思議なことにほとんど見当たりません。

「8時だョ!全員集合」をはじめ、ドリフの人気を支えていたのは子供たちだったのは事実。それだけに当時の識者は、子供への影響うんぬんについては言及しても、なぜそれだけ子供から支持されたのかは無視していたようです。

そこに、大人のファンが多かったクレイジーキャッツとの大きな違いがありました。というわけで、数十年遅れではありますが、今さらながらドリフターズの面白さについて分析してみたいと思います。もちろん、筆者も子供真っ只中であり、何も考えず夢中でテレビにかじりついていた世代ですが、当時の記憶をたどりつつ、できるだけ冷静に論じるつもりです。

「全員集合」開始以前にも、一定の人気を集めていたドリフでしたが、土曜8時に1時間の生放送をメインで受け持つことは、かなりの大勝負でした。しかも裏番組は、コント55号の「世界は笑う」。子供にも人気のあるバラエティであり、そこへ同ジャンルで切り込むことは、通常考えられないことでした。

いかりや長介著「だめだこりゃ」によれば、事前のプランは各地の公会堂を舞台にした生放送ということだけだったとか。そこに、毎回大掛かりなコントのセットを作り、屋台くずしで盛り上げるという基本コンセプトが盛り込まれたといいます。

当時、大掛かりなセットのコメディといえば「てなもんや三度笠」シリーズでした。「全員集合」のセットはそれを遥かに上回る規模の大掛かりなもの。それが長屋だったり、アフリカの秘境だったり、お化け屋敷だったりと毎回全く違う設定なだけに、現場の苦労は並大抵のものではなかったのでは。

しかし、ぼんやりした小学生だった筆者の記憶では、大変申し訳ないのですが、大掛かりなセットに驚いたり目を引き付けられた覚えはありません。何しろ何も分からないガキですから、毎週毎週セットが崩れていると、それが当たり前のことと思っちゃうんですね。

ただし、それは小さい画面(しかも白黒だったり)で見ていた子供の印象であって、公会堂で生の舞台を見たちびっ子たちは、たちまち興奮状態に陥ったことでしょう。あれだけ広い会場が一体となった歓声(「志村~、うしろ~」とかね)は、番組にとって最上級の効果音であったことは間違いありません。(今回は少し長くなりそうな予感が…)
12月 12日

日本コント史 その7「コント55号 再検証の巻」(後編)

前編でもお伝えしたように、コント55号に関してはさまざまな書籍、映像等が残されています。欽ちゃん、二郎さんは知ってても55号は知らないという方は、まずそちらをチェックしていただくと、いろいろな発見があるかもしれません。

そういった資料によって、後々明らかになったのが、55号のデビュー作であるコント「机」は、もともと役割が反対だったということ。しかし、もともとは萩本欽一ひとりで演じるネタとして考案されたことも知られており、ということは変えたというより、結局役柄を元に戻したことになります。

そんな謎を秘めたネタ「机」ですが、その後のコントの構成とは相当違っていました。このネタのみ、お互いに笑いを仕掛け合うことで成立しています。結果として、ここでは坂上二郎のギャグセンスが存分に発揮されました。

その後のコントでは、すべて萩本欽一主導で二郎さんは全面的に受身に回ります。そのため、欽ちゃんの鋭いツッコミに対して、本気でうろたえる二郎さん、という評判が日本全国に駆け巡りました。

しかし、舞台に上がって毎回毎回本気でうろたえることってできるんでしょうか? それを完璧に「演じた」のが坂上二郎という人だったのです。しかも、笑いを仕掛ける力を十二分に持ちながら、きっぱり封印して。

コント55号という存在は、「突っ込みとボケ」ではなく「突っ込みとうろたえ」によって、爆笑を生み出すコントのユニットでした。熱狂的な人気を獲得した後、あまりのレギュラー番組の多さで、その大半が作家の台本によるネタになり、本来の魅力は半減。山のような出演番組がのきなみ打ち切りになったのも分かる気がします。

その後、野球拳などを経て、人気が一段落し、73年にスタートした番組「なんでそうなるの?」は、30分の中に数本のコントを詰め込んだシンプルながらも本格的なバラエティ。途中に休止期間を挟みながらも76年まで続きました。

毎回、浅草松竹演芸場に観客を入れて収録が行われました。この場所こそが、2人のデビュー作「机」を演じた舞台であることは、おそらく偶然ではないでしょう。原点に立ち返るという意味が込められていた筈です。

ネタ作りこそ、大勢の作家が担当しましたが、すべて両人の魅力を十分理解した設定で、舞台に出た2人はそこに各々のアドリブをたっぷり盛り込み、満場の観客を爆笑させました。後期コント55号としてもっとも成熟した時期といえるでしょう。

以降の2人の活躍は、皆さんご存知のとおり。欽ちゃんは、この後も日本コント史に深くかかわっていきます。
12月 11日

日本コント史 その7「コント55号 再検証の巻」(前編)

前回コラムのまとめ部分で、これ見よがしに匂わせましたが(笑)、群雄割拠だったトリオブームを収束させたのが、ご存知コント55号でした。今度はこの1組だけで、日本を席巻するブームを巻き起こしたのですから、凄まじいパワーに満ち満ちていたことを、当時を知らない人にもご理解いただけるでしょう。

と、今回も快調に(?)始まりましたが、実はコント55号に関しては、当人および関係者による著作がかなり豊富です。そちらを読んでいただければ、おおよその事は分かるんじゃないかと。なので、そういった文献であまり言及されていない部分を中心に、落ち穂拾い的に展開したいと思います。

まずは、コンビ名について。もちろん各文献の中でも触れていて、「巨人・王選手が日本記録の55号ホームランを打ったことにちなんで」という通説に対して、萩本欽一本人の「ゴーゴーゴーと調子が良かったから」という証言を挙げ、当然こちらを正式な由来としています。

ただ「55号」については、さまざま語られていますが、なぜ頭に「コント」と付けたのかは、誰もが気にしていないようです。一時期、コント赤信号、コントレオナルドなど、頻繁に目にしたためか、何の疑問も感じなくなってましたが、55号以前、グループ名にコントと付けた例は見当たりません。

そもそも、ジャンルの名前をユニットに付けるという傾向は、日本だけでなく海外まで広げてみても、当時としては珍しかったのでは。数少ない例外が、1950年代後半にアート・ブレイキーらによって結成されたジャズ・メッセンジャーズ。

そこから、グループ名をいただいたコントのトリオが前回紹介したギャグメッセンジャーズですが、ひょっとしたら、この流れで「コント55号」と名づけたのかもしれません。欽ちゃん、二郎さんの両人ともご健在なだけに、ぜひとも聞いてみたい一件です(と、やっぱり今回も続きます)。
プロフィール

hirokawa takaaki

「週刊テレビガイド」「TV Bros.」等の編集者として、客観的な目で見ることのできる立場からテレビと接する。 平成10年 フリーのライターとして独立。依然としてテレビ関係の記事、コラムを中心に活動。数年がかりの仕事として、日本テレビ50年史(非売品)の記事、コラムを共同執筆する。ミーハーさとマニアックさを合わせ持った目線で、ありとあらゆるバラエティを紹介していきます。

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