広川峯啓の“笑いま専科”

広川峯啓の“笑いま専科”

2011年01月

1月 28日

矢口真里監督、劇団ひとり脚本作品の全貌を見た!!

映画でもTVドラマでも、基本的には撮影するカメラは1台、カメラマンは1人です。そこから発展して、複数のカメラを同時に使う手法も発達しましたが、その限界にまで挑んだのが、例の「100人カメラマン」でしょう。

例の、と言ってもご存じない方のために説明しますと、劇団ひとり(番組内での名称はハルク)と矢口真里が出演するバラエティ『How to モンキーベイビー!』(MX)の人気企画でして。せっかく高性能カメラを買ったのに動画機能を使いこなせていない「高性能カメラ持てあまし隊」を募集し、大勢でお芝居を一気に撮影してしまうというもの。

第3弾となった「さらば! ものいり刑事」は、過去最多の100人カメラマン体制で、40分ノンストップの撮影を決行した超意欲作。ひとり脚本・撮影、矢口監督・編集に加え、両人とも重要な役で出演するというハードワーク。その一部始終が収録されたDVD『100人カメラマン』が、1月26日にリリースされました。

同日には、HMV池袋店で「トークショー&握手会」が開催され、大勢のファンが詰め掛けました。今回は特にマスコミ取材の時間は設定されてなかったんですが、興味津々でつい潜入(?)してきちゃいました。

番組のカメラが入ってたこともあり、全力のハルクファッションで登場した劇団ひとり。そして、やぐっちゃん目当ての大勢のファンに笑顔をふりまく矢口真里。2人の人気に比べて、番組知名度がいまひとつなのをギャラリーから確認して、両人とも苦笑してました。

予定のゲストはこの2名だったものの、驚くことに「さらば! ものいり刑事」のメインキャスト3名、矢口監督とともに編集を担当した菅野一人氏。そして、この作品には出演していないものの、前作で脇役ながら圧倒的な存在感を発揮していた“ペンキ屋”氏が、トークショーの途中から続々と登場!! わざわざ皆さん自腹でDVDを購入し、握手してもらう気マンマンでした(笑)。

矢口、ひとりはもちろん、参加した人たちの心をわし掴みにしてしまう魅力を、この作品が持っているのかもしれませんね。一見、バラエティならではの面白企画のようですが、手法的にも実は画期的かつ実用的で、映像業界に革命を起こすパワーを秘めているような気もします。そんな「100人カメラマン」要注目です。
1月 26日

萩本欽一のコント原理主義(その4)

ラジオの『欽ちゃんのドンといってみよう!』を発展させた形でスタートさせた『欽ちゃんのドンとやってみよう!』(ややこしや~)。素人を起用した新鮮さが、作りこんだコントのドリフに対抗したというのが、当時の見方でした。

今でこそ、全盛期の思い出や手法を、テレビや著作で頻繁に語っている欽ちゃんですが、裏番組とし烈に戦っていた時期には、これらが肉声で語られることは殆んどありませんでした。広報から発表されるものは、彼自身の声だったのか? 今となっては疑問が残ります。

「萩本欽一はなぜ(笑いの)素人を起用し続けたのか?」という謎に対して、筆者は一つの仮説を持っています。ただ、当人にこれをぶつけたとして「そのとおりです」とうなづいてくれるかどうかは判りませんが…。

要するに、大勢の素人とカメラの前でお喋りすることで、欽ちゃんは自らのトークスキルを磨きたかったんじゃないでしょうか。それまで55号のコントでは、一方的に突っ込むばかりで、二郎さんが突っ込み返す場面はほとんどありませんでしたから。

しかし、単独で番組を持つについては、様々なゲストとトークを繰り広げるコーナーが付き物。そこで楽しい会話ができるための修行が、わざわざ当人がロケに出かけての「素人いじり」だったように思えてなりません。

『欽ドン』が一応の成功を見た後、フジテレビは放送曜日と時間を変え『良い子悪い子普通の子』で再び勝負に出ます。前番組同様ハガキコントが中心ですが、そこには大きな違いがありました。前回はオチの台詞のみ読んでいた欽ちゃんが、今回はフリの台詞へと役どころを変えたのです。

オチは中原理恵やイモ欽トリオの面々に任せ、ハガキを読み終わった後もやり取りを加えることで、若い彼らをさらに面白くイジったのです。そこまでできるようになるには、欽ちゃん自身、周囲に見せない努力があったに違いありません。

この番組に先んじて、同枠で半年間放送されたのが『欽ちゃんの9時テレビ』。これはオールロケで欽ちゃんが日本各地の人々とふれあうという企画で、視聴率的にはいま一つでした。しかし、新たな『欽ドン』に向けて、トークスキルを向上させてきた萩本欽一が、『9時テレビ』で最終調整を掛けたと見ることも可能では。

ご存知のように、第二次の『欽ドン』は大成功を収め、この手法は『欽どこ』『週刊欽曜日』など他局の看板番組にも取り入れられ、たちまち視聴率100%伝説が巻き起こったのでした。リハーサルでは若手中心の出演者を徹底的に鍛え上げたという裏話が残っていますが、周囲に厳しくした以上に、自分自身にも容赦しなかった(しかも見えない所で)のが、萩本欽一という不世出のコント人だったのです。

ということで、集中的に続けさせてきた「日本コント史」は、今回の番外編を加えたところで、ひとまずお休みさせていただきます。次回からは、最新のお笑い情報満載のコラムをお届けしていく予定です。乞うご期待!!
1月 25日

萩本欽一のコント原理主義(その3)

75年にスタートした『欽ちゃんのドンとやってみよう!』(フジ)は、たちまち裏番組の『8時だョ!全員集合』(TBS)の牙城を脅かすまでに
人気を獲得。日本中に萩本欽一の復活をアピールしました。

番組成功の理由は、当時も各マスコミで取りざたされました。プロの作り込んだ笑いで高視聴率を獲得し続けてきた「全員集合」が飽きられ、萩本欽一がアドリブを使ったツッコミで、素人たちの自然な笑いを引き出したからというのが主流の意見でした。

それに加え、前川清と組んだコント54号も高評価でした。笑いについては素人の前川による、今で言う「天然ボケ」が、マスコミ的には新しい笑いに見えたようです。

しかし、実際にそうだったんでしょうか? 素人が戸惑ったり、台詞をトチったりする様子は、それまでの他の番組でも見られたし、特にユーモラスなCMの手法としては定番でした。前川清については、天然と言うよりも、ある種の芸人が持つ「フラ」という要素があったんだと思います。

当時楽しみに見ていた一視聴者としての意見で恐縮ですが、番組の中でいちばん人気があっていたのは、「母と子の会話」のコーナーだったと記憶してます。欽ちゃんが人気タレントやアイドルとともに、観客の前で投稿されたコントを演じる、ライブ形式の枠です。長く続いた『欽ドン』シリーズの中でも、スタイルを変えながら綿々と続けられてきました。

コントは全て一問一答形式(つまり、フリとオチ)。常に子供役のゲストが、母親役の欽ちゃんに話しかけ、それに対して答えるというもの。ゲスト側には自分の喋る台詞しか知らされず、欽ちゃんの喋るオチの台詞を聞いて大爆笑したり、イマイチ理解できないといった表情になるのが、肝心のコント以上に面白かったのでした。

ゲストは芸人ではないものの、台詞を語るのはお手のものという人ばかり。つまり素人の生み出す面白さとは、別物だったといっても良いでしょう。では、なぜマスコミの評価と世間の評判にズレが生じてしまったんでしょうか?
1月 24日

萩本欽一のコント原理主義(その2)

1960年代、お笑いの世界に旋風を巻き起こしたコント55号。その熱狂的なブームが一段落してからは、萩本欽一、坂上二郎としての個々の活動が目立つようになりました。

その中の1つに71年に始まった伝説の番組『スター誕生!』(日テレ)があります。番組内コーナーとして、大勢の少年少女を舞台に上げてゲームを繰り広げる「欽ちゃんとあそぼう」というのがありました。ゲームに熱中する素人の面白さを最大限に引き出し、ここから黒部幸英、西山浩司ら、第一次の「欽ちゃんファミリー」が誕生しました。

その翌年にスタートした『オールスター家族対抗歌合戦』(フジ)では、出場タレントの家族の個性を引き出し、アットホームな笑いをお茶の間に届けてきました。ただし、こうした番組は、当時も数多く存在し、素人いじりの名手といわれた人が何人も活躍していました。

こうしたテレビでの活動と並行して、ラジオでは72年に『欽ちゃんのドンといってみよう!』(ニッポン放送)という帯番組をスタートさせます。これは後に人気番組となり、萩本欽一復活と評された『欽ちゃんのドンといってみよう!』(フジ)の前身と言われるものでした。

今では、ラジオ番組の主流になっている、いわゆるハガキ職人による投稿番組でしたが、取り上げられる作品は決してアットホームなものばかりではなく、ナンセンスであったり、ブラックユーモアが混じっていたりして、当時の若者達に人気の番組でした。ただし、若者向けラジオに付きものの「下ネタ」だけは、決して採用されなかった点は、萩本欽一のポリシーが貫かれていたってことでしょう(笑)。

タイトルが一文字違いで、基本コンセプトも同じということで、ラジオの『欽ドン!』がそのままテレビに移行したかのように語り継がれています。しかし、両番組の間には大きな違いが存在しているように思えてなりません。
1月 23日

萩本欽一のコント原理主義(その1)

昨年から書き続けてきた「日本コント史」ですが、笑いの質に大きな変化をもたらせた「漫才ブーム」の直前で、とりあえず「第一部完」ということにさせていただきます。ただ、こうした分け方をした場合、どうしてもうまく当てはまらない人物が1人存在するんですね。それが欽ちゃんこと、萩本欽一なのです。

1960年代のコント55号としての活躍については、これまでにたっぷり紹介しました。その後、名コンビだった坂上二郎と距離を置き、単独での仕事が増えてきた萩本が、ふたたびバラエティの世界で注目を集めたのが、『欽ちゃんのドンとやってみよう!』をスタートさせた70年代後半でした。

この時期については、前回のコラムで「漫才ブーム直前の停滞期」と称したばかりです。どうにも矛盾しているように感じる方もいらっしゃるでしょう。そこのところを詳しく説明するために、こうして別項目を立ち上げたといえます。

結論を述べるまでには、今回も紆余曲折してしまいそうですが(笑)、まずは、新番組を立ち上げる以前、55号がまだまだ活躍を見せていた70年前後まで話を戻します。センセーショナルなデビューから数年が経過し、やや落ち着きを見せたものの、まだまだ勢いは衰えてはいませんでした。

この時期、『コント55号の裏番組をぶっとばせ!』内の「野球拳」が大きな話題になりましたが、このコーナーで欽ちゃんは初めて、一般の素人と番組内でやり取りをすることになりました。続いてスタートした『55号決定版!』でも、観客を舞台に上げてトークするコーナーがありました。

この時点では、後々に発揮した「天才的な素人いじり」はまだ開花していなかったようです。しかし、慣れない素人との絡みを続けていく中、それまでコント一筋に突き進んできた欽ちゃんの中で、新たな思いが芽生え始めたのではないでしょうか?
プロフィール

hirokawa takaaki

「週刊テレビガイド」「TV Bros.」等の編集者として、客観的な目で見ることのできる立場からテレビと接する。 平成10年 フリーのライターとして独立。依然としてテレビ関係の記事、コラムを中心に活動。数年がかりの仕事として、日本テレビ50年史(非売品)の記事、コラムを共同執筆する。ミーハーさとマニアックさを合わせ持った目線で、ありとあらゆるバラエティを紹介していきます。

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