長く続いた「テレビの黄金時代」と、80年代の「漫才ブーム」の間に挟まれた70年代後半は、まさにバラエティにとってエアポケットでした。制作サイドは、新しい笑いを生み出すことよりも、お茶の間が楽しく見られる雰囲気を作ることに徹していました。

しかしそんな状況のもとでも、水面下では新たな笑いを模索する動きが見られました。時系列的に言えば、70年代中盤に演劇の世界で革命を起こしたと言われる、つかこうへいの芝居が後のお笑い、特にコントの世界に与えた影響は、並々ならないものがありました。

つかこうへいの芝居にとって、「笑い」というものは全体をつかさどる要素の一部分でした。しかし、若き笑いの作り手達にとって、つか芝居からほとばし出てくる「笑い」は、あまりにも刺激的でした。

この影響を受けた若者たちが、その笑いの手法を会得して表現し、それが広く受け入れられるようになるまでには、ある程度の年月を要しました。小劇場出身のコント赤信号、シティボーイズ等が人気を獲得したのは80年代に入ってからのことです。

それとはまったく違う角度から、日本の笑いに革命(というか、黒船襲来ですな)を巻き起こした存在がありました。ご存知「モンティパイソン」です。76年の4月に東京12チャンネル(現・テレビ東京)で放送が開始され、それまでの日本にはなかった斬新な笑いに、たちまち魅了された熱狂的なファンは、決して少なくはありませんでした。

とはいえ、関東ローカル圏内での放送ということもあって、日本全土を揺るがすまでにはいたらず、まだまだ「ゆるい笑い」は幅を利かせていました。ただ、思わぬ反響に手応えを感じた12チャンネルは、その後も「サタデー・ナイト・ライブ」「ザ・ゴング・ショー」「SOAP」など、欧米最先端の笑いを次々と紹介。新しい笑いを受け入れる土台を築いたのではないでしょうか。

このように、お笑い停滞期とも見えるエアポケットの数年間でしたが、数年後に待ち受ける変革期への予兆は、いくつも存在していたのでした。……と、ここで「第一部完」とすれば、納まりが良さそうにも見えますが、実は大事なことを一つ書き落としてしまいました。

というか、今回の文脈の中で伝えるには、あまりにも大きすぎる事項ということもあり、熟慮のうえ(?)、新たに別項目を立ち上げて、ご紹介させていただくことにします。(という訳で、やっぱりもう少しだけ続くことに(汗))