昨年から書き続けてきた「日本コント史」ですが、笑いの質に大きな変化をもたらせた「漫才ブーム」の直前で、とりあえず「第一部完」ということにさせていただきます。ただ、こうした分け方をした場合、どうしてもうまく当てはまらない人物が1人存在するんですね。それが欽ちゃんこと、萩本欽一なのです。
1960年代のコント55号としての活躍については、これまでにたっぷり紹介しました。その後、名コンビだった坂上二郎と距離を置き、単独での仕事が増えてきた萩本が、ふたたびバラエティの世界で注目を集めたのが、『欽ちゃんのドンとやってみよう!』をスタートさせた70年代後半でした。
この時期については、前回のコラムで「漫才ブーム直前の停滞期」と称したばかりです。どうにも矛盾しているように感じる方もいらっしゃるでしょう。そこのところを詳しく説明するために、こうして別項目を立ち上げたといえます。
結論を述べるまでには、今回も紆余曲折してしまいそうですが(笑)、まずは、新番組を立ち上げる以前、55号がまだまだ活躍を見せていた70年前後まで話を戻します。センセーショナルなデビューから数年が経過し、やや落ち着きを見せたものの、まだまだ勢いは衰えてはいませんでした。
この時期、『コント55号の裏番組をぶっとばせ!』内の「野球拳」が大きな話題になりましたが、このコーナーで欽ちゃんは初めて、一般の素人と番組内でやり取りをすることになりました。続いてスタートした『55号決定版!』でも、観客を舞台に上げてトークするコーナーがありました。
この時点では、後々に発揮した「天才的な素人いじり」はまだ開花していなかったようです。しかし、慣れない素人との絡みを続けていく中、それまでコント一筋に突き進んできた欽ちゃんの中で、新たな思いが芽生え始めたのではないでしょうか?
1960年代のコント55号としての活躍については、これまでにたっぷり紹介しました。その後、名コンビだった坂上二郎と距離を置き、単独での仕事が増えてきた萩本が、ふたたびバラエティの世界で注目を集めたのが、『欽ちゃんのドンとやってみよう!』をスタートさせた70年代後半でした。
この時期については、前回のコラムで「漫才ブーム直前の停滞期」と称したばかりです。どうにも矛盾しているように感じる方もいらっしゃるでしょう。そこのところを詳しく説明するために、こうして別項目を立ち上げたといえます。
結論を述べるまでには、今回も紆余曲折してしまいそうですが(笑)、まずは、新番組を立ち上げる以前、55号がまだまだ活躍を見せていた70年前後まで話を戻します。センセーショナルなデビューから数年が経過し、やや落ち着きを見せたものの、まだまだ勢いは衰えてはいませんでした。
この時期、『コント55号の裏番組をぶっとばせ!』内の「野球拳」が大きな話題になりましたが、このコーナーで欽ちゃんは初めて、一般の素人と番組内でやり取りをすることになりました。続いてスタートした『55号決定版!』でも、観客を舞台に上げてトークするコーナーがありました。
この時点では、後々に発揮した「天才的な素人いじり」はまだ開花していなかったようです。しかし、慣れない素人との絡みを続けていく中、それまでコント一筋に突き進んできた欽ちゃんの中で、新たな思いが芽生え始めたのではないでしょうか?
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